〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
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2012/07/19 (木) 虫出しの神鳴かみなりふんどし かきたる君様きみさま (三)

しん 発意ぽち その役にやあるつらん、起上おきあが りて、糸かけ直し、かう もりつぎて、 を立たぬ事とけしなく、寝所ねどころ へ入るを待ちかね、女の出来でき ごころ にて髪をさばき、こはい顔して、くら がりよりおどしければ、流石さすが 仏心ぶつしん そなはり、少しも驚く気色けしき なく、 「なんぢ 元来がんらい 帯とけひろげにて、世にいたづ ら者や、たちまち消え去れ。この寺の大黒だいこく になりたくば、和尚をしやう の帰らるるまで待て」 と、目を見開き申しける。

しん 発意ぽち が香を継ぐ役であったのだろう、起き上がって鈴の糸を掛け直し、香を盛り継いで、いつまでも座を立とうとしないのでじれったくなり、寝所へ入るのを待ちかねて、女の出来心で髪を振り乱し、恐ろしい顔をして暗がりからおどしたところ、さすがに新発意だけあって悟りの心がそなわり、少しも驚く様子はなく、 「なんじ 、元来帯とけひろげで、まったくみだ らなやつじゃ。たちまち消え去れ、この寺の大黒にばりたくば、和尚おしょう の帰られるまで待て」 と、目をむいてきめつけた。

お七しらけて走り寄り、 「こなたを抱いて寝に来た」 といひければ、しん 発意ぽち 笑ひ、 「吉三郎様の事か。おれと今まで跡さして しける。その証拠臥しようこ はこれぞ」 と、小服綿こぷくめ の袖をかざしけるに、白菊などいへる留木とめき の移り香、 「どうもならぬ」 と、うち悩み、その寝間ねま に入るを、新発意声立てて、 「はあ、お七様、よい事を」 といひけるに、又驚き、 「何にてもそなたの欲しき物を調ととの へ進ずべし。だまり給へ」 といへば、 「それならば銭八十と、松葉屋の骨牌かるた と、浅草の米饅頭よねまんぢゆう いつ つと、世にこれより欲しき物はない」 といへば、 「それこそやすい事。明日あす ははやばやつか はし申すべき」 と約束しける。この 坊主ぼうず 、枕かたむけ、 「夜が明けたらば三色みいろ 貰ふはず、必ず貰ふはず」 と、夢にもうつつ にも申し寝入りに静まりける。

お七はてれくさくなって走り寄り、「お前様を いて寝に来た」 と言う。新発意は笑って、 「ああ、吉三郎様のことか。おれと今まで足を差し入れ合って寝ていた。そのその証拠はこれじゃ」 と、小服綿こぶくめそで をかざしてみせると、白菊とかいう銘香の移り香がする。お七は悩ましくなって、 「これはもう、どうにもならぬぞ」 と、身悶みもだ えして、その寝間へ入って行くと、新発意は声を立てて、 「はあ、お七様、よい事なさる」 と言うので、また驚き、 「何でもお前の しいものを買ってあげよう。だから、お黙り と言うと、 「それなら銭八十文 (約六〇〇円) と、松葉屋の骨牌かるたと、浅草の米饅頭よねまんじゅう 五つと、世の中にこれよりほかに欲しいものはない」 と言う。 「それこそお安い御用、明日になったらさっそくあげますよ」 と、約束した。すると、この小坊主はまくら を片寄せ横になり、 「夜が明けたら三色の物をもら うはず、必ず貰うはず」 と、夢うつつに言いながら眠り込んで静かになった。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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