〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
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2012/07/18 (水) 虫出しの神鳴かみなりふんどし かきたる君様きみさま (二)

やうやう け過ぎて、人皆おのづから寝入りて、いびきのき玉水たまみづ の音をあらそひ、雨戸あまど隙間すきま より、月の光もありなしに静かなる折節おりふし客殿きやくでん を忍び出けるに、身にふるひ出て足元あしもと も定めかね、枕ゆたかに したる人の腰骨こしぼね を踏みて、魂消ゆるがごとく、胸痛く上気じやうき して、物いはれず、手をあは して拝みしに、この者われとが めざるを不思議と、心をとめてなが めけるに、めし かせける女の梅といふ下子げす なり。

しだいに夜も更けてゆき、皆いつの間にか眠ってしまって、人々のいびき は軒の雨だれと音を争い、雨戸の隙間からさす月の光もあるかなしに、あたりが静かになったころ、お七は客間を忍び出たが、身震いがしてきて足元も定まらず、気持ちよく寝込んでいる人の腰骨を踏みつけて、魂も消えるばかり驚いた。胸がどきどきのぼせてしまってお びの言葉も出ず、ただ手を合わせて拝んだところ、先方では何もとが めないので不思議だと、よく注意して見ると、それは、めし きの梅という下女であった。

それをのり えて行くを、この女、すそ引留ひきとど めける程に、又、むね 騒ぎして、 「我留われとど むるか」 と思へば、さになあらず、小半紙一折ひとおり 手に渡しける。 「さてもさても、いたづら仕付しつ けて、かかるいそがしき折柄おりがら も気の付きたる女ぞ」 とうれしく、方丈はうぢやう に行きて見れども、かの児人せうじん寝姿ねすがた 見えねば、悲しくなって台所に出ければ、うばさま し、 「今宵こよひ ねずみ めは」 とつぶやく片手に、椎茸しひたけ の煮しめ・葛袋くずぶくろ などとり くもをかし。
しばしあってわれ を見付けて、 「吉三郎殿の寝所ねどころ は、そのその 坊主ばうず とひとつに三畳敷さんでふじき に」 と、肩たたいて小話ささや きける。思ひのほか なるなさけ 知り、 「寺には惜しや」 と、いとしくなりて、してあるむらさき 鹿 の帯ときて取らし、姥が教へるにまかせ行くに、 つ頃なるべし、常香盤じたうかうばん の鈴落ちて、響き渡る事しばらくなり。

その女の上をまたいで行こうとすると、この女はすそ を引っ張ってとめるので、また胸がどきどきして、 「自分を引き留めようとするのか」 と思うと、そうではなくて、小半紙を一折手渡ししてくれた。 「さてもさても色事をしなれているので、こんな気ぜわしい場合にも、よく気のつく女だ」 と、うれしく思いながら、方丈へ行ってみたけれども、かの若衆の寝姿が見えないので、悲しくなって台所に出て行ったところ、うば が目を覚まして、 「今夜はねずみ のやつがうるさくて」 とつぶやきながら、椎茸しいたけ の煮しめ、葛袋くずぶくろ などを取りかたづけるのもおかしかった。
しばらくして自分を見つけ、 「吉三郎殿の寝所は、それあそこの、小坊主とひとつに三畳敷に」 と、肩をたたいてささやいた。これは思いのほかの情け知り、 「寺などに置くのは惜しいもの」 と、かわいくなって、しめていた紫鹿 の帯を解いて与え、姥が教えたとおりに行くと、もう夜は八つ (午前二時) ごろであろう。常香盤じょうこうばん の鈴が落ちて、その音がしばらく響き渡った。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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