〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
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2012/07/17 (火) おほ せつ は 思 ひ の やみ (三)

お七は母の親大事だいじ にかけ、坊主ぼうず にも油断ゆだん のならぬ世の中と、よろづに気を付けはべ る。折節おりふし の夜風をしのぎかねしに、亭坊ていぼう慈悲じひ の心から、着替きがへ のある程出して、貸されける中に、黒羽二重くろはぶたへ大振袖おほふりそで に、梧銀杏きりいちやう のならべ紋、紅裏もみうら山道やまみち裾取すそと り、わけらしき小袖の仕立したて きかけ残りて、お七心に まり、 「いかなる上臈じやうらふ か世を早うなり給ひ、形見もつらしと、この寺にあが り物か」 と、我が年の頃思ひ出して、哀れにいたましく、逢ひ見ぬ人に無常むじやう おこ りて、 「思へば夢なれや、何事もいらぬ世や、後生ごしやう こそまことなれ」 と、しほしほと沈み果て、母人ははびと数珠袋じゆずぶくろ をあけて、願ひの玉の 手にかけ、口のうちにして題目だいもく いとまなき折から、やごとなき若衆わかしゆ の、しろがね毛抜けぬき 片手に、左の人差指ひとさしゆび にあるかなきかのとげ の立ちけるも心にかかると、暮方くれかた障子しやうじ をひらき、身を悩みおはしけるを、母人ははびと 見かね給ひ、 「抜きまゐらせん」 と、その毛抜けぬき を取りてしばらく悩み給へども、老眼のさだかならず、見付くる事かた くて、気の毒なるありさま、お七見しより、 「我なら目時めどき の目にて、抜かんものを」 と思ひながら、近寄りかねてたたずむうちに、母人ははびと 呼び給ひて、 「これを抜きてまゐらせよ」 とのよし、うれし。
お七は母親が大事にして、坊主にも油断のならぬ世の中と、万事に気をつけていた。折から冬のこととて、人々は夜嵐よるあらし の寒さをしのぎかねていたところ、住持は慈悲の心から、着替えのある限りを出して皆に貸された中に、黒羽二重くろはぶたえ大振袖おおふりそで があった。きり銀杏いちょう比翼紋ひよくもん で、紅絹裏もみうらすそ を山道形にふさ をつけ、色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香のかお りもまだ残っているのに、お七は心をひかれて、 「どんな御婦人が若死になさって、その形見を見るのも辛いと、このお寺に寄進なさったものだろうか」 と、自分の年頃に思い合わせて、哀れにまたいたましく、見た事もない人の為に無常心が起こって、 「思えば人の一生は夢のようなもの、何もいらぬ世の中じゃ。後生を願うこそ人間のまことの道じゃ」 と、しおしおと思い沈み、母親の数珠袋じゅずぶくろ をあけて、数珠を手にかけ、口の中でお題目を一心に唱えていた。そのとき上品な若衆が、銀の毛抜きを片手に持って、左の人差し指にあるかないかわからぬくらいの刺が刺さったのも気にかかると、夕暮れ時の障子をあけ、抜きなやんでおられるのを、お七の母親が見かねて、 「抜いてさしあげましょう」 と、その毛抜きを受け取り、しばらく苦心しておられたg、老眼のこととてはっきりせず、刺を見つけることが出来ずに困っておられる様子である。お七はこれを見たときから、 「私なら若くてよく見えるこの目で抜いてあげようものを」 と思いながら、近寄りかねて佇んでいると、母親が呼ばれて、 「これを抜いてさしあげなさい」 と言われたのは嬉しかった。
かの御手を取り手て、難儀なんぎ を助け申しけるに、この若衆わかしゆ われ を忘れて、みづか らが手をいたくしめさせ給ふを、離れがたかれども、母の見給ふをうたてく、是非ぜひ もなく立ち別れさまに、覚えて毛抜けぬき を取りて帰り、また返しにとあと をしたひ、その手を握り返せば、これよりたがひ の思ひとはなりける。
その人の御手を取って難儀を助けてさしあげたところ、この若衆は我を忘れて、お七の手をきつく握りしめられたので、離れ難く思ったけれども、母親が見ておられるのがいやで、しかたなく別れたが、その際にわざと毛抜きを持って帰り、またそれを返しにゆくといって跡を追い、手を握り返したので、これから互いに思い合う仲となったのである。
『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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