〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
姿 姫 路 清 十 郎 物 語

2012/07/12 (木) 状箱じやうばこ は宿に置いて来た男 (二)

その日より座敷牢ざしきろう に入れて、憂き難儀なんぎ のうちにも、我が身の事はない物にして、 「お夏はお夏は」 と口走りて、 「その男めが状箱忘れねば、今時分は大坂に着きて、高津かうづ あたりの裏座敷借りて、年寄つたかか ひとり使うて、まづ五十日ばかりは、昼夜なしに、肩もかへずに寝るはずに、お夏とないだん 談したもの、皆昔になる事の口惜くちお しや。誰ぞ殺してくれいかし。さてもさても、一日のなが き事、世にあきつる身や」 と、舌を歯にあて、目をふさぎし事、千度ちたび なれども、まだお夏に名残なごり ありて、 「今一度ひとたび 、最後の別れに美形びけい を見る事もがな」 と、はぢ も人のそし りもわきまへず、男泣きとはこれぞかし。ばん の者ども、見る目も悲しく、色々にいさめて日数をふりぬ。

座敷牢に閉じ込められた清十郎は、我が身の難儀に苦しむうちにも思いはひたすらお夏に飛んだ。
「お夏は、お夏は・・・・」 と口走りながら、 「あの飛脚めが状箱さえ忘れなんだら、今ごろは大阪に着いて、高津あたりに裏座敷を借り、年寄った下女一人を使い、まず五十日は夜昼なしに、寝返りひとつせず共寝しようとお夏と約束したのを実行できたものを、すべては昔の思い出となりはてた。ああ、一日のなんと長いことぞ。いっそ誰かわしを殺してくれないか。この世に生きるのがいやになったわい」 と、舌を噛み切って自殺しようとしたのもたびたびだった。
けれども、お夏に残る未練はなお強く、 「せめてもう一度、最後の別れにあの美しい姿を見られぬものか」 と、恥も外聞もなく男泣きした。見張りの番の者たちもその深い嘆きに心を打たれ、いろいろと親身のはげましをするうちに、月日は過ぎた。

お夏も同じ嘆きにして、七日のうちは断食だんじき にて、願状ぐわんじやう を書きて、願室むろ の明神へ命乞いのちご ひしたてまつりにけり。不思議や、その夜半やはん と思ふ時、老翁らうをう枕神まくらがみ に立たせ給ひ、あらたなる御告おつ げなり。 「なんぢ 、我がいふ事をよく聞くべし。そう じて、世間の人、身の悲しき時いたつて無理なる願ひ、この明神がままにもならぬなり。にはか福徳ふくとく を祈り、人の女をしの び、憎き者を取殺とりころ しての、降る雨を日和ひより にしたいの、生まれつきたる鼻を高うしてほしいのと、さまざまの思ひ事、とても叶はぬに無用の仏神を祈り、厄介やつかい を掛けける。過ぎにし祭にも参詣さんけいともがら 、一万八千十六人、いづれにても、大欲に身の上を祈らざるはなし。聞きてをかしけれども、散銭さんせん 投げるがうれしく、神の役に聞くなり。この参りの中にただ一人、信心の者あり。高砂たかさご の炭屋の下女、何心もなく、 『手足息災そくさい にて、又参りましたよ』 と拝みて立ちしが、こもどりして、 『私もよき男を持たして下さりませ』 と申す。 『それは出雲いづも大社おほやしろ を頼め。こちは知らぬ事』 とはいうたれども、え聞かずに下向げかう しけり。その方も親兄次第に男を持たば、別の事もないに、色を好みて、その身もかかる迷惑なるぞ。汝、惜しまぬ命は長く、命を惜しむ清十郎はやがて最期さいご ぞ」 と、ありありとの夢悲しく、目をさま して心細くなりて泣き明かしける。

清十郎を慕うお夏の思いも同じで、七日間の断食をして祈願文を書き、室津の明神に清十郎の命乞いをした。すると不思議にもその夜半と思われる頃、老翁が夢枕に立って、お夏に語りかける。
「そなたは、わが言をよく聞きわけねばならぬであろう。世間の人は一般に悲運にみまわれた時に急に福徳を祈り、無理な願いをするものだから、この明神とてもままならぬのだ。それにまた、人妻に懸想してみたり、憎い者をとり殺してくれの、雨をとめて日和にしたいの、生まれつき低い鼻を高くしてくれのと、とてものことにかなわぬむなしい願いをかけて、神仏を迷惑させる。過日の祭礼のさいにも、参詣の男女一万八千十六人が欲深く、だれもが身の上の利益を祈るばかりだった。聞いていておかしくてたまらぬけれど、賽銭を投げてもらわねばならぬので、これも神の役目だと達観するしだいだ。
なお過日の参詣人の中にただ一人まともな信心家に見えた者がいて、それは高砂の炭屋の下女で、なんの欲心もなく、 『身体息災が神のおかげと思い、また参詣いたします』 と拝んで去りかけるまではよかった。ところが、去ったと思う間もなく、引き返して来て、 『私によい夫を持たせてくださりませ』 とねだったのじゃ。せっかくの素直な信心家だから傷つけないようにと、 『縁談なら出雲の大社に頼みなさい。室の明神は縁談にはかかわらぬ』 と返事しておいたが、理解してくれたかどうか。
さてその方についてだが、親や兄の選ぶのに任せて亭主を持てば平穏無事だったのに、自分で選り好みをしたためこのような苦境に迷い込んでしもうた。汝が惜しまぬみずからの命は長く、反対に惜しんでやまぬ清十郎の命はやがて最期をむかえようぞ」
夢の中とはいえ、ありありと鮮明な神にお告げが悲しく、お夏は目を覚まして心細くなり、一夜を泣き明かした。

『現代訳 西鶴名作選』 訳者:福島忠利 発行所:古川書房 ヨ リ
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