かかる時、清十郎親仁
、腹立ち重かさ なり、この宿にたづね入り、思ひもよらぬ俄風にはかかぜ
、荷をのける間もなければ、 「これで焼けとまりますほどにゆるし給へ」 と、さまざま詫わ
びても聞かず、 「とかくはすぐにいづ方へも、お暇いとま
申して、さらば」 とて帰られける。皆川を始め、女郎泣出なきだ
して、わけもなうなりける。太鼓持たいこもち
の中に、闇の夜の治介といふ者、少しも驚かず、 「男は裸が百貫、たとへてらしても世は渡る。清十郎様せき給ふな」 といふ。この中にもをかしく、これを肴さかな
にして、又、酒を呑みかけ、せめては、憂きを忘れける。 |
ちょうど折悪く、腹立ちが重なってこらえきれなくなった清十郎の父親がこの揚屋にのり込んで来た。思いもかけぬ突風が吹き寄せたようで、難を避ける暇もなく、清十郎は、
「今日限りでバカな遊びはやめますから、お許し下さい」 というほかなかった。 だが、さまざまに詫びを申し立てても父親はききいれず、 「弁解は無用。ただちにどこへでも消え失せろ」
ときめつけて、さっさと帰ってしまった。皆川をはじめ女郎たちが泣き出して、座はさんざんに乱れておさまりがつかなくなった。ところが、太鼓持のひとり、闇夜の治介という
者だけは少しも騒がず、 「男は裸で百貫の値打ち。たとえふんどし一筋でも世は渡れます。清十郎さま、うろたえなさるな」 となぐさめた。 追い詰められたこの場面にありながら、なおも、おもしろおかしく、あられもない強がりを肴にして酒を飲みなおし、せめてしばしの憂さ晴らしをしようとしたのだ。 |
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はや、揚屋あげや
には、験げん を見せて、手叩たた
きても返事せず、吸物すひもの
の出時でどき 淋さび
しく、 「茶のも」 といへば、両の手に天目てんもく
二つ、帰りさまに油火の灯心とうしん
をへして行く。女郎それぞれに呼びたつる。さてもさても、替かは
るは色宿いろやど のならひ、人の情なさけ
は一歩ぶ 小判あるうちなり。皆川が身にしては、悲しく、ひとり跡に残り、泪なみだ
に沈みければ、清十郎も、 「口くち
惜お しき」 とばかり、言葉も命は捨つるにきはめしが、この女の
「同じ道に」 といふべき事を悲しく、とやかく物思ふうちに、皆川、色を見しまし、 「方かた
様は、身を捨て給はん御気色、さりとてはさりとてはおろかなり。我が身事みこと
もともに、と申したき事なれど、いかにしても世に名残なごり
あり。勤めはそれぞれに替かは
る心なれば、何事も昔々、これまで」 と、立ち行く。 |
しかし、揚屋の態度はたちまち冷淡にかわって、手を叩いても返事せず、吸物の出るべきときになってもその気配はなく、
「茶を飲みたい」 というと、無作法にも天目茶碗をふたつ運んで来て、帰りがけには灯心の火を暗くしてゆく。さらには女郎をひとりひとり呼び立てて、引きあげさせる。 さてもさても手の平かえすのが色里の習い、人がちやほやするのは金のあるうちに限られるのだ。 さて、深くちぎった皆川にしてみれば、呼ばれても立つ気になれず、ひとりあといに残って泣きの涙にじゅれると、清十郎も
「口惜しい」 とだけいって黙ったものの、かえって命を捨てる覚悟がはっきりとみえた。が、清十郎は皆川に心中しようといいかけるのが悲しくてたまらず、あれこれと思い迷ううちに、皆川が心中を見抜き、
「あなたさまは身を捨てるおつもりのようですが、愚かしい限りでございます。わたくしもご一緒にと申したいところですけれど、なんとしてもこの世に未練がございます。客商売はいうならば客しだい。事情が変われば心も変わるのがつねですから、これまでの事は過ぎた昔とお考え下さい。では、さようなら」
と言って、立ち去った。 |
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さりとは、思はく違ひ、清十郎も我が
を折って、 「いかに傾城けいせい
なればとて、今までのよしみを捨て、浅ましき心底しんてい
、かうはあるまじき事ぞ」 と、泪なみだ
をこぼし立ち出る所へ、皆川、白装束しらしやうぞく
してかけ込み、清十郎にしがみつき、 「死なずにいづくへ行き給ふぞ。さあさあ今ぢゃ」 と、剃刀かみそり
一対つい 出しける。清十郎、又さしあたり、
「これは」 と悦よろこ ぶ時、皆々出合ひ、両方へ引き分け、皆川は親方の許へ連れ帰れば、清十郎は人々取りまきて、内への御詫言わびごと
の種たね にもと、旦那だんな
寺でら の永興院えいこうゐん
へ送りとどける。 その年は十九、出家の望み哀れにこそ。 |
さりとは思惑違いもいいところだと、ついに清十郎は我を折って、
いかに遊女だからといって、これまでの深いよしみをぽいと投げ捨てるのは、心底があさましすぎる」 と、涙をうかべながら座敷を出ようとした。 そのところに皆川が白装束で駆け込んで清十郎にしがみつき、
「死なずにどこへ行こうというのですか。さあさあ死ぬなら今じゃ」 と、剃刀一対をもちだした。不意をつかれた清十郎は、驚くとみるまに 「やはりそうだった」 と喜悦感をおぼえたが、このとき多数の人が出合って、二人を引き分けた。 皆川が抱え主のとkろに連れ帰られたのは当然だが、清十郎についてはみんなが相談して、父親にあやまるしるしになるはずだと、菩提寺の永興院に送り届けた。もし本人に出家の望みがあったとすれば、年齢が十九歳だからなんとも哀れなのだが
──。 | 『現代訳 西鶴名作選』
訳者:福島忠利 発行所:古川書房 ヨ リ |
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