〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/19 (火) 新院御経沈めの事 付けたり 崩御の事 (八)

かように書き付け、思ひ続けて、涙をのご ひ、時うつ るまでつくづくと候ひて、また、泣く泣く口説くど き申しけるは、 「あな、事もおろ かやな。天照大神てんせうだいじん 四十七世の御末、太上法皇だいじやうほふわう の第一の御子おんこ御裳濯川みもすそがは の御流れかたじけ なくおはしまして、 を治め、国を治めさせたまふ事十九年、一天晴れて、万人ばんにん 穏やかなりき。されば、たれ の人かこの御位を傾け奉るべきなりしかども、前世ぜんせ の御果報くわほうつたな くおはしましけるによって、今かかる変域へんゐき塵土ぢんど とならせたまへり。いか ばかりかは都も恋しくおぼ され、御怨念をんねんとどま らせおはしましけん。いにしへ 厳粧げんしやう 金屋きんをく の内にては、理世りせい 撫民ぶみんまつりごときこ し、百官ひやくくわん あひ したが ひ、万国なび き奉りしかば、長生不老ちやうせいふらう の門を立て、蓬莱ほうらい 不死ふし の薬をのみ求めさせたまひしに、今は雲上うんしやう栄楽えいらく 夢のごとし。天災たちま ちに起こりて、九重ここのへ花洛くわらく で、千里せんり異域いゐきうつ らせたまふ。荊棘けいきよくはら ふ人もなし。松のしづく 、span>こけ の露、重なる下に ちさせたまふ、宿執しゆくじふ の程こそ悲しけれ。」

松山まつやま の なみ に流れて  し舟の  やがてむな しく なりにけるかな
西行さいぎやう 、夢ともなく、うつつ ともなく、御返事ぺんじ 申しけり。
よしや君 昔の玉の ゆか とても  かからん後は 何にかはせん

このように書き付けて、新院のことを偲びながら、涙を拭い、時刻がたつまで、じっと立ち尽くし、また、泣く泣く繰り言して、 「ああ、おろかなことよ。天照太神四十七世の御末、太上法皇の第一の御子、皇統を継ぎ、世を治め、国を治めて十九年、この間、天は雲晴れて、人は皆穏やかであった。だから、この御位を傾ける者が出るなど思いも寄らない事であったが、前世の御果報がつたなくいらしたせいか、今このような辺域の塵土となってしまわれた。どんなにか都を恋しく思われ、御執念を積もらせなさったことだろう。古くは、 厳粧金屋の内で、理世撫民の政をとられ、多くの官僚を従え、国中すべて随順していたから、長生不老の門をたて、蓬莱不死 の薬を求められたのに、今はうって変わって、かっての栄華は夢のようなものである。天災が突然起こって都を出ることになり、千里隔てた異郷にお移りになった。恨みを他州に残し、死を異郷で迎えることになり、歳去り歳来ても、御墓所の荊棘を払う人はいない。松のしずく、苔の露が重なる地下で朽ち果てなさること、前世の執念のなせることとは言いながら悲しい。」

人の寿命とは、松山の浪に流れて漂い来た小舟のようなもの。ともにあっという間に朽ち果ててしまうことよ
西行は、夢ともなく、うつつともなく、次のような歌を返事としてたてまつった。
ええ、ままよ。たとい天皇として権勢ふるまおうとも、死してしまえばそれまでのこと。身の不運を嘆くことなく、安らかにお眠りください
かように申したりければ、御墓みはか 三度まで震動しんどう して恐ろしき。世澆季げうき に及ぶといへども、万乗ばんじよう余薫よくん はなほ残らせたまひけるにやと、思い るこそめでたけれ。まこと尊霊そんりやう もこの詠歌えいが に御こころ 解けさせたまひけるにや。さても、彼の蓮誉れんよ は、八重やへ潮路しほぢ を分けて、宸襟しんきん存生ぞんじやう の日にとぶ らひ奉り、この西行が四国しこく 遍路へんろ を巡見せし、霊魂れいこん崩御ほうぎよ の後に尋ね奉る。この君御在位の間、恩によく し、徳をかうぶたぐひいくば くぞや。されども、今は、なげの情けをかけたてまつる者、たれ一人いちにん もありし。ただこの蓮誉れんよ西行さいぎやう のみ参るべしとは、昔、露もいかでかおぼ るべき。
このように申し上げたところ、御墓が感応して三度も震動したのは恐ろしいことであった。末世になろうとも、天皇としての尊厳はなお残っていたのだろうかと思いやるにつけてもめでたい。まことに崇徳院の御霊魂も、この詠歌で得心なさったのだろうか。さて、彼の蓮誉は遠い海路をかき分けて、新院がご生存の時に尋ね来、西行はまた、四国辺地を見歩いた折、新院崩御後のこととて霊魂を弔ったことである。崇徳院がご在位の間、その恩に浴し、徳を蒙った者は数多い。しかし、今となっては、かりそめの情けをかける者さえ一人もいない。この蓮誉と西行だけが尋ねて来ようとは、かつて、新院も想像なさったことはなかろう。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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