そもそも、人皇
七十七代の間、公私の合戦数を知らずといへども、光仁天皇くわうにんてんわう
已前いぜん は、皇都くわうと
を意こころ に任せ、基もとゐ
を一所いつしよ に定められず。桓武天皇くわんむてんわう
の御宇ぎよう 、帝城ていせい
をこの地にトし め、平安城へいあんじやう
と号かう せしよりこのかた、星霜せいざう
三百七十余廻くわい 、されども、父子・兄弟両方に分かれ、皇居くわうきよ
・仙洞せんとう に軍陣たり、皇城わうじやう
を戦場とし、宮門きゆうもん に血を流す事、先蹤せんじよう
これ稀まれ なり。然しか
れば、智将ちしやう 各々おのおの
力を尽つ くし、士卒しそつ
多く死破しは す。逆徒ぎやくと
悉ことごと く退散たいさん
し、王臣わうしん 皆身を合はす。希代きたい
不思議ふしぎ の義兵ぎへい
なり。 |