〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/18 (月) 新院御経沈めの事 付けたり 崩御の事 (六)

かくて、新院しんいん 、御写経事おは りしかば、御前に積み置かさせたまひて、御祈誓きせい ありけるは、 「われ 深き罪に行はるるに、愁鬱しううつ 浅からず。すみ やかにこの功力くりき をもって、とがすく はんとほつ す。莫大ばくだい の行業を、しかしながら、三悪道さんあくだう に投げ み、その力をもつ って、日本国につぽんこく大摩縁だいまえん となり、わうたみ となし、民を皇なさん」 とて、御した の先を食ひ切りて、流るる血を って、大乗経だいじようぎやう の奥に御誓状せいじやう をあそばし付けらる。 「願はくは、かみ 梵天帝釈ぼんでんたいしやくしも 堅牢地神けんらうぢじん に至るまで、この誓約せいやく合力かふりよく したまへや」 とて、海底に入れさせたまひけり。

このようなありさまで、新院は御写経を終え、眼の前に積み置かせて、御祈誓なさるには、 「自分は大罪に処せられ、ために愁いで気が晴れない。早くこの功徳を以って、わが咎を救おうと願うのみ。大きな行業を、すべて三悪道に投げ込み、その力を以って、日本国の大魔縁となり、皇を民に引きずりおろし、民をして皇となさん」 と言うや、舌先を食い切り、流れ出る血で大乗経の奥に御誓状を書き付けた。 「願わくは、上は梵天帝釈、下は堅牢地神に至るまで、この誓約に合力してくだされんことを」 と唱えるや、海底に投げ込んだ。

その後、九ヵ年を経て、御歳四十六と申せし長寛ちやうくわん 弐年八月廿六日、つひかく れさせたまひぬ。やがて、白峯しろみね といふところ に渡し奉る。さしも御意趣いしゆ 深かりし故にや、焼き上げ奉りける煙も、都を指してなびきけるこそおそろ しけれ。御墓所はかどころ は、やがて白峯しろみね に構へたてまつる。この君、当国にて崩御ほうぎよ なりしかば、讃岐院さぬきいん と申せしを、治承ぢしよう の頃、死霊どもをなだ められし時、追号ついがう ありて、崇徳院すとくいん とぞ申しける。
その後九年たって、御歳四十六歳であらせられた長寛二年八月二十六日に、ついにお亡くなりになった。直ちに、白峰という所にお移しした。あれだけの深い御執念だったからであろうか、火葬の煙も都に向かってたなびいたのは恐ろしいことである。御墓所は直ちに白峰に構えた。この君はこの国で崩御なさったので讃岐院と申し上げたが、治承の頃、死霊どもをなだめることがとりはからわれた時、追号があり崇徳院と申し上げた。
一宮いちのみや 重仁親王しげひとしんわう をば、御出家の後は、花蔵院法印元性けざうゐんほふいんげんせい と申しき。新院しんいん 崩御ほうぎよ の都に聞えしかば、入道法親王にふだうほつしんわうより、 「御ぶく はいつより召さるべきぞ」 と尋ね申させたまひける御返事おんぺんじ
きながら その松山まつやま の 形見には  今夜こよひふぢ の ころも をば着る
んぬる仁平にんべい久寿きうじゆ の頃までは、一宮いちのみや とて、親王のせん を下され、いつき、かしづかれたまひしが、今日は、引き替へて、玉のかぶり 、花の御姿衰へさせたまひて、墨染すみぞめ めの御そで に藤の衣を重ねさせたまひける。御こころ の程こそいたはしけれ。
一宮重仁親王については、御出家の後、花蔵院法印元性と申し上げた。新院崩御のことが都に伝わり、入道法親王から、 「喪服はいつから着用されるのか」 と尋ねられての御返事は、次の和歌であった。
つらいことではあるが父の崩御を知り、その松山の形見として、今宵から喪服を着ることよ
去る仁平、久寿のころまでは、一宮として親王の宣をいただき、大事に大事にされていたのが、今は、うって変わって、あの麗しいお姿がすっかり衰えてしまい、墨染めの御袖に喪服を重ね着されることになった。そのご心境いかばかりかいたましい。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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