さても、新院
、讃岐さぬき への御下向げかう
見奉るこそ哀れなれ。御船の中もいまいましく、月卿雲客げつけいうんかく
一人も候さぶら はれず、ただあらけき兵つはもの
ばかりぞ参りける。 遠く異朝いてう
を訪とぶら ふに、昌邑皇賀しやういふくわうが
は胡国ここく に帰され、玄宗皇帝げんそうくわうてい
は蜀山しよくざん に遷うつ
されき、近く我が朝を尋ぬるに、安康天皇あんかうてんわう
は継子けいし に殺され、崇峻すしゆん
天皇は逆臣げきしん に亡ぼさる。十善じふぜん
の君きみ 、万乗ばんじよう
の主あるじ も、前世ぜんせ
の宿業しゆくごふ をばなほ遁のが
れたまはざるにや。 八月十日、既に讃岐に着かせたまひたししかども、御所も未いま
だ造り出い ださざりければ、
「二に の在庁散位ざいちやうさんゐ
高遠たかとほ が松山まつやま
の御堂みどう へ入れ奉りたり」
ち、請文うけぶみ を都へ奉る。その後、御所は、国司こくし
秀行ひでゆき が沙汰さた
として、当国とうごく 志度しど
の郡こほり 、直島なほしま
といふ所に造り奉る。 |
それにしても、新院が讃岐へ下向なさるのを見るにつけ、おいたわしい。船の中も何となくよそよそしく、月卿雲客は一人も付き添わず、ただ荒々しい武士が控えるだけであった。 遠い異朝の例に、昌邑皇賀は胡国に帰され、玄宗皇帝は蜀山に移された。近く、我が朝の例では、安安天皇は継子に殺され、崇峻天皇は逆臣に亡ぼされた。天皇といえども前世の宿業から遁れることは出来ないということであろうか。 八月十日、はや讃岐に到着したが、御所もまだ造られていなかったので、
「二の在庁散位高遠の松山の御堂にお入れした」 との報告書を都へ届けた。その後、御所は、国司秀行が手配して、当国志度の郡、直島という所に造った。 |
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彼の島は、陸地りくぢ
より押し渡る事二時ふたとき ばかりなり。田畠でんばく
もなければ、住民ぢゆうみん の棲すみか
もなし。実まこと にけうとき所なり。四分一しぶんいち
より遥はる かに狭せば
く、築地ついぢ は築つ
き、中に屋一つ立てて、門一つを立てたり。外そと
より鎖をさし、供御くご 進まゐ
らする外ほか 、人の出入いでい
りあるべからず。 「仰おほ せ出い
ださるる事あらば、守護の兵士ひやうじ
承うけたまは りて、目代もくだい
に披露せよ」 とぞ仰おほ せ下されける。海頬うみづら
近き所なれば、海上かいしやう
煙波えんぱ の眺望てうぼう
にも慰なぐさ ませたまふべきに、かやうに閉と
ぢ籠こ められさせたまへば、松風まつかぜ
、浦波うらなみ 、千鳥ちどり
の声、何なに となく寝覚ねざめ
の床とこ に聞きこ
し召め す。ただ蒼天さうてん
に向ひて月に愁うれ へ、風に嘯うそぶ
かせたまひて、明あか し暮らさせたまひけり。 |
その島は、陸地から、時間にして二時ほど離れていた。田畑もないので、住民の家もない。実に人気のない所である。国家の司よりはるかに狭く、築地をめぐらし、中に屋敷を一棟建てて、門を一つ建てていた。外から鎖をさし、食事を運ぶほかは、人の出入りは許されなかった。
「言いたいことがあったら、守護の武士がまず承って、目代に伝えよ とのお達しであった。海が近く、海上煙波の眺望に心慰められるはずが、かく閉じ籠められてしまって、松風、浦波、千鳥の声をぼんやりと寝覚めの床でお聞きになる。ただ月を眺めては愁え、風に向かって詩歌を吟じなさるだけの生活であった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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