〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/16 (土) 新院御経沈めの事 付けたり 崩御の事 (一)

さても、新院しんいん讃岐さぬき への御下向げかう 見奉るこそ哀れなれ。御船の中もいまいましく、月卿雲客げつけいうんかく 一人もさぶら はれず、ただあらけきつはもの ばかりぞ参りける。
遠く異朝いてうとぶら ふに、昌邑皇賀しやういふくわうが胡国ここく に帰され、玄宗皇帝げんそうくわうてい蜀山しよくざんうつ されき、近く我が朝を尋ぬるに、安康天皇あんかうてんわう継子けいし に殺され、崇峻すしゆん 天皇は逆臣げきしん に亡ぼさる。十善じふぜんきみ万乗ばんじようあるじ も、前世ぜんせ宿業しゆくごふ をばなほのが れたまはざるにや。
八月十日、既に讃岐に着かせたまひたししかども、御所もいま だ造り ださざりければ、 「在庁散位ざいちやうさんゐ 高遠たかとほ松山まつやま御堂みどう へ入れ奉りたり」 ち、請文うけぶみ を都へ奉る。その後、御所は、国司こくし 秀行ひでゆき沙汰さた として、当国とうごく 志度しどこほり直島なほしま といふ所に造り奉る。

それにしても、新院が讃岐へ下向なさるのを見るにつけ、おいたわしい。船の中も何となくよそよそしく、月卿雲客は一人も付き添わず、ただ荒々しい武士が控えるだけであった。
遠い異朝の例に、昌邑皇賀は胡国に帰され、玄宗皇帝は蜀山に移された。近く、我が朝の例では、安安天皇は継子に殺され、崇峻天皇は逆臣に亡ぼされた。天皇といえども前世の宿業から遁れることは出来ないということであろうか。
八月十日、はや讃岐に到着したが、御所もまだ造られていなかったので、 「二の在庁散位高遠の松山の御堂にお入れした」 との報告書を都へ届けた。その後、御所は、国司秀行が手配して、当国志度の郡、直島という所に造った。

彼の島は、陸地りくぢ より押し渡る事二時ふたとき ばかりなり。田畠でんばく もなければ、住民ぢゆうみんすみか もなし。まこと にけうとき所なり。四分一しぶんいち よりはる かにせば く、築地ついぢ き、中に屋一つ立てて、門一つを立てたり。そと より鎖をさし、供御くご まゐ らするほか 、人の出入いでい りあるべからず。 「おほ ださるる事あらば、守護の兵士ひやうじ うけたまは りて、目代もくだい に披露せよ」 とぞおほ せ下されける。海頬うみづら 近き所なれば、海上かいしやう 煙波えんぱ眺望てうぼう にもなぐさ ませたまふべきに、かやうに められさせたまへば、松風まつかぜ浦波うらなみ千鳥ちどり の声、なに となく寝覚ねざめとこきこ す。ただ蒼天さうてん に向ひて月にうれ へ、風にうそぶ かせたまひて、あか し暮らさせたまひけり。

その島は、陸地から、時間にして二時ほど離れていた。田畑もないので、住民の家もない。実に人気のない所である。国家の司よりはるかに狭く、築地をめぐらし、中に屋敷を一棟建てて、門を一つ建てていた。外から鎖をさし、食事を運ぶほかは、人の出入りは許されなかった。 「言いたいことがあったら、守護の武士がまず承って、目代に伝えよ とのお達しであった。海が近く、海上煙波の眺望に心慰められるはずが、かく閉じ籠められてしまって、松風、浦波、千鳥の声をぼんやりと寝覚めの床でお聞きになる。ただ月を眺めては愁え、風に向かって詩歌を吟じなさるだけの生活であった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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