〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/15 (金) 為朝生捕り遠流に処せられる事 (四)

その後、公卿くぎやう 僉議せんぎ ありて、 「この為朝をば、首を ねられるべきか」 、 「禁獄きんごく せらるべきか」、 「いかがあるべき」 と、様々さまざま なりけるに、関白殿くわんぱくどのおほ せられけるは、 「今度の合戦に、御方みかたつはもの ども、多く命を損じ、きずかふぶ ること、ただこの為朝一人いちにん所行しよぎやう なり。同じ八虐はちぎやく凶徒きようと ひながら、殊更ことさら もってその罪のが れ難し、もつと重科ぢゆうくわ に行はるべしといへども、そののが れ来たり、今まであるうへは、まことに自然しぜん の天運と云ひつべし。今更死罪に及びがた きか。就中なかんづく 、この為朝、弓箭ゆみや に長ぜる事、上古しやうこ にもためし なう、末代にもあるべからず。しかるを、たちま ちに断罪に及ぶ事、後代こうたいそし りなるべし。もし、また、先非せんぴ を悔い、野心をひるがへ す事あらば、朝家てうか の御宝たるべし」 など申させたまひければ、公卿くぎやう 一同いつどう に、 「あは れ、めでたき仰せかな。さらば、遠流をんる にこそあらめ」 とて、伊豆いづ大島おほしま へ流し遣はさる。

その後、公家の会議があり、 「この為朝の首を刎ねたものか」 、「禁獄にしたものか」 、「どう処罰するのが妥当だろうか」 と議論を重ねたが、関白殿が、 「今度の合戦で天皇方の兵ども多くが戦死し、傷を受けたのは、すべてこの為朝一人のしわざである。同じく八虐の凶徒とはいっても、特にその罪は遁れられない。いちばんの重科に処すべきだといっても、合戦場から逃亡して、今まで生きているなど、たぐいまれな天運の持ち主だ。今更死罪にはできまい。なかで、この為朝が武術に長けていること、上古にも例を見ず、これからもこのような人物は出現しそうにない。それなのに、死罪にしてしまったら、後々非難されることになろう。もし、これまでの非を反省し、野心を悔い改めることがあったら、国家の宝になろう」 などとおっしゃるので、公家一同、 「さすが立派な仰せよ。それでは、遠流が妥当」 と裁断して、伊豆の大島へ流されることになった。

ここ に、信西しんぜい 申しけるは、 「この為朝、内裏だいり 高松殿たかまつどの に火を放ち、御輿こし に矢をまゐ らせなどつかまつ る事、既に君を射奉るにあらずや。その罪ははなはだ重き上、はた して朝敵てうてき とならん事、疑ひあるべからず。しかれば、自今じこん 以後いご 、弓を引かせぬやうにあひ はか らふべし」 とて、義朝に仰せ付けられ、左右のひぢのみ にて打ち放ちてぞ抜きたりける。しかるあひだ、肩の はな れて、手綱たづな を取るに及ばざりければろう のごとくに四方しほう を打ち付けたる輿を造り乗せ、四方にながえ を渡して、廿余人して きて、五十余騎の兵士ひやうし へて、宿次しゆくつぎ 宿次にぞ送りける。
この際、信西が言うには、 「この為朝は内裏高松殿に火を放ち、天皇の御輿に矢を射かけるなどしたことは、これはもう天皇に矢を放つも同然ではないか。その罪は大変重く、朝敵であることに疑いはない。とすれば、これより後、弓を引くことが出来ぬようにせねばなるまい」 とのことで、義朝に命じて、左右の肘を鑿で打って抜いた。ために肩の継ぎ目がはずれて、手綱をかけることが出来ず、籠のように四方を打ちつけた輿を作ってそれに乗せ、四方に轅を渡して、二十人余りでき、五十騎余りの兵どもを付き添わせて、宿場を次々と通って送った。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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