〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/14 (木) 為朝生捕り遠流に処せられる事 (二)

八郎為朝は、近江国あふみのくに にありける。昼は山に隠れ入り、夜は里に で、朗等らうどう 一人いちにん 落ちたりけるに、打ち入り、押し入りさせて、明かし暮らしけるほ程に、さのみは野山に さん事も物憂ものうおぼ えて、ある片山寺かたやまでら に立ち寄り、朗等をば法師になし、時々頭陀づだ させてぞ日を送りけるが、つくづくと思ひけるは、 「さてもやすらかならぬ事かな。左大臣殿といふ不覚仁ふかくじん へられて、今度の合戦に打ち負け、親父しんぷ ・兄弟を滅ぼし、身をいらづらになしつる事の口惜しさよ。中にも、義朝よしとも をただ一矢ひとや に射殺すべかりしものを、助け置きてたす けたれば、今は親のかたき になりぬる事こそくやしけれ。所詮しよせん鎮西ちんぜい に下りて、九国くこく の者どもをもよほ して、都へ攻め上り、皇城わうじやう を打ちかたぶ けんに、義朝、定めて防がんずらん、たと ひ百万 中になりとも、 け破って、義朝つか んでひさ げ、くび ぢ切って、入道にふだう 殿の孝養けうやう手向たむ け奉り、余党よたう奴原やつばら 追ひなび かして、新院の御代みよ となし、為朝、日本国の惣追捕使そうついぶし とならん事、何の子細かはあるべき」 と、おほけなき心ぞ付きにける。

八郎為朝は近江国にいた。昼は山に隠れ入り、夜は里に出て、朗等一人が残り留まっているその郎党に、略奪させて生活していたが、このような野山に臥す生活も辛くなり、小さな山寺に立ち寄り、郎党を法師にして、時々托鉢させて日を送っていた。しかしよくよく考えて、 「それにしても、心外なことだ。左大臣殿という不覚人にさえぎられた為に今度の合戦に負け、親父、兄弟を亡くし、我が身もまた敗亡の身になってしまうなど口惜しいことよ。なかでも、義朝をただ一矢で射殺せばよかったのに、助けてしまったため、今は親の敵になっているなど口惜しくてならない。ここはひとつ、鎮西に下って、九州の兵どもを集めて、また都に攻め上り、皇居を攻め破ろうと思うが、その際は義朝がきっと防ごうとするだろう。たとい、百万騎に囲まれてもそこを駆け破って、義朝を引っ捕らえてぶらさげ、首をねじ切って、入道殿の御供養として手向け、義朝の仲間を服従させて、新院の御治政とし、為朝は日本国惣追捕使となることに、何不都合なことがあろうか」 などと、大胆不敵なことを思いついた。

しかるあひだ、 「急ぎ下らん」 と思ひけるが、その折節をりふし安芸守あきのかみ朗等らうどうへい 左衛門尉さゑもんのじよう 家貞いえさだ鎮西ちんぜい より大勢にて上洛しやうらく したりけるが、朗従等らうじゆうら淀川尻よどがはじり充満じゆうまん したりければ、 「時分じぶん しかりなん。しばら くその程を過ぐさん」 とためらひけるほどに、宿運しゅくうん や尽きにけん、重病づゆうびやう けて、万死一生ばんしいつしやう なりけるが、とかくして助かりたりけれども、合期がふご せざりければ、ある所の湯屋ゆや りて、療治れうぢ を加へけるところ り合ひたる甲乙人等かふおつにんら 、これを見て、 「あなおそろし。人間にんげん の人とは見えず。愛宕あたご高尾たかを大天狗だいてんぐ などが、人をたぶらかさんとするにこそ」 と、をのの き、あや しみをなす。
そこで、 「急いで鎮西に下ろう」 と思ったが、ちょうどその時、安芸守の朗等、左衛門尉家貞が鎮西から大軍勢で上洛したので、朗従どもが淀川の川口の辺りにあふれかえっていたので、 「今は時期が悪い。しばらく時期を待とう」 とためらっているうちに、宿運が尽きて、重病のかかり、あやうく死ぬはめに陥ったが、あれこれ治療してやっと助かった。しかし、立ち居が思うに任せず、ある所の湯屋に下りていって、治療を加えていたところ、居合わせた人々がこれを見て、 「ああ恐ろしいことよ。とても人間とは見えない。愛宕や高尾の大天狗などが人間をだまそうとしているのだろう」 と恐れおののき、不審がった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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