〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/08 (金) 義朝幼少の弟悉く失はるる事 (五)

乙若殿、また、面々に乳母どもに取り付きて泣きをめおさな き者どもを引き放ちて、 「など、和子わこ どもは、これ程に云ふに効なくはありけるぞや。源氏とてこの家に生れたる者は、末々すゑずゑ までも、皆、心はかう にこそあんなれ。いはん や、我等われら は、さすが清和天皇せいわてんわう の御末、八幡殿はちまんどのまさ しき孫ぞかし。迦陵頻かりようびん といふ鳥は、かひご の内にて鳴く声も衆鳥しゆてうすぐ れ、栴檀せんだん といふ木は二葉ふたば よりかう ばしかんなるものを。和子どもも、そのごとくにてこそあらむずれ」 とて、敷皮しきがは の上に三人をなら ゑ、波多野をば後だて、乙若殿は前についゐて、太刀の影を見せじと、あなた此方こなた へ目を見合はせて、 「父のわた らせたまふ所へ う参れ、といふにてこそあれ。父御前は、あの見ゆる西の山の中にましますぞ。それへ参らんと思はば、さき のごとくに目をふさぎ、西に向ひ、手を合はせ、念仏を申せよ」 と教へければ、三人の者ども、また、目をふさぎ、西に向ひて手を合わせ、「父はいづくに渡らせたまふぞ。只今まゐ るぞや。待たせたまへや」 とて、声々に念仏高らかにとな へければ、波多野太刀を抜き、引きそばめ、後にまは るかと見えしかば、亀若、鶴若、天王殿のくび は前にぞ落ちにける。

乙若殿は、またそれぞれに乳母どもに取りすがって泣き喚いている幼い者を引き放して、 「お前たちは、どうしてこれ程に聞き分けが悪いのか。源氏に生まれた者は、末々に至るまで、皆心は剛直であることが誇りだ。まして、我らは清和天皇の子孫、ほかでもない、八幡殿の孫だ。迦陵頻といふ鳥は、卵のうちから鳴く声があらゆる鳥よりすぐれ、栴檀の木は双葉のころからかんばしい香りがするという。お前たちもこうなくてはならないだろう」 と諭して、敷皮の上に三人並んで座らせ、波多野を後ろに立て、乙若殿は前に座り、太刀が目に付かないようあちこち目を見合わせて、 「父がおいでになる所へ早く参れとおっしゃっているようだ。父は、あそこに見える西の山の中にいらっしゃるのだ。そこへ行きたく思うのなら、さっきまでのように目をゆぶり、西に向かって手を合わせて、念仏を唱えよ」 と教えたので、三人の者どもは、また目をふさぎ、西に向かって手を合わせて、 「父はどこにいらっしゃるのか、ただ今参りますぞ。お待ちください」 と言って、声たからかに念仏を唱えたので、波多野も太刀を抜いて構え、後ろに立ちまわると見えた瞬間、亀若、鶴若、天王殿の首は前に切り落とされた。

乙若殿、つくづくと見て、少しもおく せず、色も変せず、 「あはれ、きよ げにもしつるものかな。我をもかうこそせんずらめ」 とて、三つの首を一所いつしよ に並べ置きて、髪や顔に懸かりたる血を、袖をもってのご ひ押し拭ひ、涙をはらはらと落とす。 「無慙の者どもや。我は、兄なれば、先に立てて行かんと、たのもしくこそ思ひつらめ。おさな き心どもに、さこそ便りなく思ふらめ。やがて追ひ付きて、死出しで の山、三途さんづ の川とかやをば引き越さんずるぞよ」 とて、心はたけ くもてなせども、しの びあへぬ涙のしきりにこぼれけるこそ哀れなれ。
ややはる かに有りて、涙押し拭ひて、 「我等が首をば、血のご ひ、顔つくろひ、本結もとゆひ 尋常にして、見参けんざん に入れよ。それぞなんじ が最後の宮仕みやづか へにてあらんずる」 とのたま へば、波多野、用意したりける足高哺貝あしたかほかひ に三つの首をしたた め入れて、片方かたかた けおきたりければ、乙若殿、これを見遣みや りて、 「我が首置かんずるため にこそ」 と思ひける心のうち こそ無慙なれ。

乙若殿はじっと見詰め、少しも気後れすることなく、顔色も変えないで、 「ああ、すがすがしい振る舞いよ。自分もかくありたいもの」 と言って、三つの首を一所に並べ置いて、髪や顔にかかっている血を我が袖で押し拭い、涙をはらはらと流した。乙若は、 「かわいそうなことをしたものよ。自分は兄だから、先導してくれるものと頼りにしていたことだろう。幼心にどんなにか不安に思っていることだろう。早く追いついて、死出の山、三途の川を越そうと思う」 など、気丈にふるまっていたものの、さすが涙をこらえかねているさまはあわれである。
しばらくして、涙を拭いながら、 「我らの首の血を拭い取り、顔をつくろい、髻をきっちり結い直してから、見参に入れてくれ。今まで世話になったが、これを最後の世話と心得てくれ」 と言ったので、波多野は足高哺貝に三つの首をきっちり入れて、片方をあけておいたので、乙若殿はこれを見て、 「ああ、自分の首を入れようとしてなのだ」 と合点したが、かわいそうなことである。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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