また、乙若殿云ひけるは、 「あの少
き者どもの髪かみ の、顔に懸か
かりたる暑あつ げさよ。推お
し上げて、結ゆ へかし」 と云ひければ、乙若殿には源八げんぱち
、亀若殿には後藤次ごとうじ 、鶴若殿には吉田よしだの
四郎、天王殿には内記平太ないきのへいた
とて、面々めんめん に付きたりけるが、各々おのおの
、膝の上に掻き据す ゑて、髪を結ひ、顔の汗拭のご
ひなどしけるが、 「襁褓きやうほう
の中より肩頸かたくび に乗せ奉り、膝ひざ
の上に抱いだ き育て進まゐ
らせ、朝夕撫な でし黒髪も、これを最後かし」
と思ひけるに、目め も眩く
しれ、心も乱れけれども、適たまたま
泣き止みたまひたる少き人々を、また泣かせ奉らじと、押おさ
ふる袖の下よりも、漏も れて涙ぞ流れける。
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また、乙若殿が、
「あの幼い者どもの髪が顔にかかってうっとうしい。髪を押し上げ結い直してくれ:」 と頼んだので、乙若殿には源八、亀若殿には後藤次、鶴若殿には吉田四郎、天王殿には内記平太と、各人に割り当てられ、それぞれ膝の上に抱いて、髪を結い直し、顔の汗を拭ったりしていたが、
「赤ん坊のころから肩や首の辺りに乗せ、膝の上に抱いて育て、朝夕撫でた黒髪もこれが最後よ」 と思うと、目もくれ心も乱れたが、たまたま泣き止んでいるこの幼い主たちをまた泣かせるようなことがあってはならないと、袖で顔を覆って泣く姿を見せまいとしたが、袖の下から涙が流れ出る。 |
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また、乙若殿、
「兄なれば、先ず我をとこそ思ふらめど、少き者どもの、後にいかなるらんと思ひ置かば、執心も留まり、おぼつかなくも思ふねし。その上、少き者ども、我が斬られんありさまを見ては、強ちに怖じ恐れんずるは、先ず、彼等を先立てんと思ふぞ」
と云ひければ、波多野、 「尤ももさこそ候はめ」 とて、太刀を抜き、引きそばめて、近付きければ、少き者ども、太刀の影に驚きて、 「これは、さて、実に失はんずるにや。暫し助けよや」
とて、乳母どもにひしひしと取り付きて、喚き叫び、悲しみければ、乳母ども、いく程惜しむべきにはなけれども、手をかざし、袖を覆ひて、諸共に泣き悲しむぞ無慙なる。波多野次郎も、太刀を差し、袖を顔に推し当てて、涙を流し、泣き居たりけるが、
「何れか主にておはしまさぬ。このありさまを見奉るに、こらふべしとも思えねば、少き人々引き具し奉りて、何方へも落ち行き、貴き聖にも奉りて、法師になし、入道殿の御菩提をも弔らはせ奉り、我も、本鳥切りて、山々寺々をも修行し、我が後世をも願はばやと、千度思ひけれども、日本国、既に敵なり。いづくへ行きたらば遁れたまふべきかは、且また、頭殿も、いかなる罪にやあたりたまはんずらん」
を思ひけれな、ただつくづくと泣くより外の事もなし。 |
また、乙若殿、
「豈だから自分から先に斬ろうという気持が強いだろうが、幼い者どもが、自分の亡き後、どうなるだろうかと気がかりで、執心が残り、心配だ。そのうえ、幼い者どもは、自分が斬られるのを見てひどく怖がるだろう。まず、彼らを先にと思うのだ」
と言うので、波多野も、 「確かにそうです」 と答えて、太刀を抜いて、構えながら近付いたところ、幼き者どもは、太刀を見て驚き、 「さては、本当に殺されるのか。今少し助けておいて」
と、乳母どもにしっかりと取り付いて、おめき叫び、泣き叫びして悲しんだので、乳母どもも、このままいつまでも嘆いていることは許されないとわかっていたが、顔を手でかざし、あるいは袖で覆い隠すなどして、一緒に泣き悲しんでいるさまは何ともいたましいことであった。波多野次郎も太刀を鞘に納めて、袖を顔に押し当てて涙を流し泣いていたが、
「考えてみれば、この方々も主筋に当るということになろう。この有様を見ては我慢が出来ません。幼い人々を引き連れて、どこへなりとも逃げのび、貴僧の引きで法師になり、入道殿の御菩提を弔わせ、自分も髻を切って、山々寺々をまわって修行し、我が後世を弔いたく何度も思ったが、今はこの方々は朝敵となってしまった。どこへ行くとも逃げ切れるものではないし、また、それでは、頭殿もどんな処罰をお受けになるか気がかりなことよ」
などと思い続け、ただ泣くより他はなかった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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