〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/07 (木) 義朝幼少の弟悉く失はるる事 (三)

鶴若殿、波多野を見あげて、 「あは れ、これは義通が聞きたが ひしたるよな。下野殿のもと へ人をつか はして聞かばや。いくさ したまひたる兄の殿ばらをこそ、君も 『斬れ』 とは仰せられ候はめ。幼き我等われら をば、何の故にかうしな はせたまふべき」 と言へり。
亀若殿、波多野に取り付て、 「哀れ、下野殿は しくも計らひたまふものかな。人の世にあるといふは、一門兄弟の広きをこそいふなれ。我等三人、四人たす けおかせたまひたらば、よき方人かたうど にてこそあらむずれ。よからん郎等らうどう 一、二百人にはいかで へたまふべき。只今後悔したまはんずるものを。よくよく計らひたまはで」 と云ひければ、乙若殿、輿の内より出でて、波多野に取り付きたる弟どもを引き放ちて、 「あさましき者どもの有様ありさま や。人もこそ聞け。心を静めて、しばらく我が云ふ事聞きたまへ。下野殿、兄なればとて、たのもしかるべき人かは。父人入道殿の、六十余り、やまひ に沈み、今日けふ 明日あす とも知りたまはぬが、出家入道して、 『我を助けよ』 とて、打ちたの みて来たまひたるをだにも、斬り奉る不当人ふたうにん が、行く末はるかなる我等を助け置かんとは、いかで か思ふべき。たと ひ助け置きたりとても、心あるべき我が身かは。な泣きそ、和子わこ たち。泣くとも、たれ か助くべき。必ず死ぬる らひあんなれば、ただその時と思ふべし。大人おとな になりて死なんも、只今斬られんも、命を しむならひ、ただ同じ事にてぞあらむずらむ。生きても、今日は、また、何のせん かはあるべき。世にあらせたまふべき父は討たれたまひぬ。たの むべきこのかみ たちは皆斬られぬ。助くべき下野殿はかたき なり。所領の一所いつしよ を持たずして、乞食こつじき 頭陀づだぎやう をして、 『あれこそ為義ためよし が子供のなれるはて よ』 と、人に指を差されて何かはせん。それよりも、父恋しく思ひ奉らば、 を泣き み、西に向ひ手を合はせ、 『父入道殿、我等四人一所いつしよ へ迎へ取りたまへ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ 』 と申さば、父のましますところへ、やがて参らんずるぞ」 と云ひければ、三人の弟ども、兄の教へに従ひて、音を泣き止み、西に向ひ、手を差し合はせて、臥し拝めば、五十余人のつはもの ども、皆涙をぞ流しける。その中に、波多野次郎、赤縅あかをどしよろひそで 、流るる涙にすすがれて、あらがは とやなりぬらん。

鶴若殿は波多野を見上げて、 「ああ、これは義通が間違いをしているよ。下野殿の許へ人をやって確かめよう。合戦に参加した兄たちについては、君も斬れとは命じられよう。しかし、幼い我らは、どうして殺されなければならないのか」 と言う。亀若殿も波多野に取りすがり、 「ああ、下野殿のお考えは間違っている。時めいているというのも、一門の兄弟が多ければこそ。我ら三人、四人を養い育ててくれたら、心強い味方になろうというもの。有能な郎等一、二百人に匹敵すること間違いない。たった今にも後悔するだろう。よくよく考えもしないで」 と訴えるが、乙若殿が輿の内から出るや、波多野にすがりついている弟どもを引き放して、 「みっともない振舞いをして。人に聞かれるだろう。心を鎮めて、しばらく、自分の言うことを聞け。いったい、下野殿は兄だからといって、頼りになる人物か。父入道殿が歳六十をこえ、病にかかり、今日明日とも分からぬ重病になったので、出家入道したうえ、自分を助けてくれと頼んで来たのさえ斬ったような不当人にして、若い我らを助けおこうと思うわけがない。たとい助けおかれても、安心して過ごせるわけがない。泣くな、お前たち。泣いても、だれも助けてくれない。人間は必ず死ぬのだから、今がその死の時と思うがよい。大人になって死のうとも、たった今斬られて死のうとも、命を惜しむのは人間の常、同じことよ。生きていたところで、今となっては何の詮もないこと。時めいて当然の父は討たれ、頼りにすべき兄たちも皆斬られてしまった。自分たちを助けてくれるはずの下野殿は敵になっている。所領の一つ持たず、乞食頭陀の行をしたあげく、 『あれが為義の子供のなれの果てよ』 などと人に指さされるなどは耐えられない。それよりも、父が恋しいのなら、泣くことをやめて、西に向かい、手を合わせ、 『父入道殿よ、我ら四人を同じ所に迎へ取ってください、編む阿弥陀仏』 と唱えたら、父がいらっしゃる所へ直ちに参ることが出来よう」 と諭したところ、三人の弟どもは兄の教えに従って泣き止み、西に向い、手を差し合わせて伏し拝んだので、五十余人の兵どもは皆涙を流した。なかで、波多野次郎は、赤縅の鎧の袖が、流れる涙に洗われて、洗い革となってしまった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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