〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (下)

2012/06/06 (水) 義朝幼少の弟悉く失はるる事 (一)

清盛きよもり郎従らうじゆう 平兵衛尉びやうゑのじよう 家貞いへさだ 、鎮西にありけるが、この合戦の事を聞きて、急ぎのぼ りたるが、播磨守はりまのかみ に向ひて恥ぢしめけるは、 「弓箭ゆみや りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加みやうが もありて、家門かもん 繁昌はんじやう する らひにて候ふに、叔父をぢ伯母をば 共に親のごとしと本文ほんもん 候ふ。叔父は既に父に同じ、冥見むやうけんまなじり 恐れずはあるべからず。しかるを、下野殿しのつけどの判官殿はんぐわんどの らるる事、あへて人の上とはおぼ すべからず。しかしながら、平馬助へいまのすけ 殿を斬り奉らるる故にあらずや。かようの御こころ にては、朝家てうか の御固めともなり、君の御守りともならせたまひなんや」 など、かき口説くど き、涙を流しければ、清盛、 「まことにことわり なり」 と思はれければ、口を じ、のが れにけり。人これを伝へ聞き、 「物のなさ けを知る事、必ずしも高きいや しきによらず。家貞いへさだ はよくこそ恥ぢしめけれ」 とぞ申し合へる。

清盛の郎従平兵衛尉家貞はそのころ鎮西に居住していたが、この合戦のことを聞きつけて、急ぎ京に上った。播磨守に向かって意見して、 「武士たる者は、特に情けも深く、哀れをも知り尽くして、助けるべき者はもちろんのこと、罰すべき者も許し助けてこそ、武芸に冥加もあり、一家繁昌することになっている。叔父や伯母は親同然という文句がある。叔父は確かに父と同じ。神仏はすべてお見通し、これを裏切るようなことがあってはならに。それなのに、下野殿は父判官殿を斬ることがあったが、決して他人事と思ってはならない。すべて貴殿が叔父平馬助殿を斬ったことから始まった。このような心構えでは、国家の御固め、君の御守りとなることができようか」 などとくどくどと語りかけ、涙を流した。清盛も、 「まことにごもっとも」 と思ったので、何も言わずに退席した。これを伝え聞いて、人々は 「ものの情けを知ることは、必ずしも身分の高い低いににはよらない。家貞はよく意見したものよ」 と噂しあった。

また、左馬頭さまのかみ のもとへおほ せ下されけるは、 「為義ためよし が子供、都のうち に、おさな けれども、男女のたぐひ 多くありときこ す。女子によし のほか、男子なんし ならんをば、皆々失ふべし」 と仰せられたりければ、義朝、波多野次郎を招きて、 「母のあひ し、乳母めのといだ きて、山林にまじは りたらんいは力無し。京中にあらむずる少き者どもをば、皆尋ね求めて、失ふべし。中にも六条ろくでう 堀川ほりかは の四人の少き者ども、道の程、泣かせずして、船岡山ふなをかやま に相具して、首を ねてまゐ らせよ」 とのたま ひければ、義通よしみち 、 「口惜くちを しき御使ひをつかまつ るものかな」 と思ひけれども、主命しゆめい 限りあれば、力及ばず、輿ごし 用意して、五十騎にて、六条堀川へ行き向ふ。
また、内裏から左馬頭の許に、 「為義の子供が都に、幼少だが男女合わせて、まだ多く残っているそうだ。女子はともかく、男子は皆殺してしまえ」 と命令が下ったので、義朝は波多野次郎を呼び寄せて、 「母が連れ、乳母が抱いて、山林に逃げ込んだ者はしようがない。京の町中に留まっている幼い子供たちをことごとく探し出して、殺すがよい。なかでも、六条堀川の四人の子供につき、道中泣かせないようにして、船岡山に連れて行き、首を切れ」 と命じたので、義通は、 「これはまた気の進まない御使いを引き受けたものよ」 と思ったが、主君の命令とあらば従わざるを得ず、張り輿を用意して、五十余騎で六条堀川へ行き向かった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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