清盛
が郎従らうじゆう 平兵衛尉びやうゑのじよう
家貞いへさだ 、鎮西にありけるが、この合戦の事を聞きて、急ぎ馳は
せ上のぼ りたるが、播磨守はりまのかみ
に向ひて恥ぢしめけるは、 「弓箭ゆみや
取と りと申し候ふは、殊に情けも深く、哀れをも知りて、助くべき者をば助け、罰すべき者をも許したまへばこそ、弓箭の冥加みやうが
もありて、家門かもん 繁昌はんじやう
する慣な らひにて候ふに、叔父をぢ
・伯母をば 共に親のごとしと云い
ふ本文ほんもん 候ふ。叔父は既に父に同じ、冥見むやうけん
の眸まなじり 恐れずはあるべからず。しかるを、下野殿しのつけどの
、判官殿はんぐわんどの を斬き
らるる事、あへて人の上とは思おぼ
し召め すべからず。しかしながら、平馬助へいまのすけ
殿を斬り奉らるる故にあらずや。かようの御意こころ
にては、朝家てうか の御固めともなり、君の御守りともならせたまひなんや」
など、かき口説くど き、涙を流しければ、清盛、
「実まことに に理ことわり
なり」 と思はれければ、口を閉と
じ、遁のが れにけり。人これを伝へ聞き、
「物の情なさ けを知る事、必ずしも高き賤いや
しきによらず。家貞いへさだ はよくこそ恥ぢしめけれ」
とぞ申し合へる。 |
清盛の郎従平兵衛尉家貞はそのころ鎮西に居住していたが、この合戦のことを聞きつけて、急ぎ京に上った。播磨守に向かって意見して、
「武士たる者は、特に情けも深く、哀れをも知り尽くして、助けるべき者はもちろんのこと、罰すべき者も許し助けてこそ、武芸に冥加もあり、一家繁昌することになっている。叔父や伯母は親同然という文句がある。叔父は確かに父と同じ。神仏はすべてお見通し、これを裏切るようなことがあってはならに。それなのに、下野殿は父判官殿を斬ることがあったが、決して他人事と思ってはならない。すべて貴殿が叔父平馬助殿を斬ったことから始まった。このような心構えでは、国家の御固め、君の御守りとなることができようか」
などとくどくどと語りかけ、涙を流した。清盛も、 「まことにごもっとも」 と思ったので、何も言わずに退席した。これを伝え聞いて、人々は 「ものの情けを知ることは、必ずしも身分の高い低いににはよらない。家貞はよく意見したものよ」
と噂しあった。 |
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また、左馬頭さまのかみ
のもとへ仰おほ せ下されけるは、
「為義ためよし が子供、都の中うち
に、少おさな けれども、男女の類たぐひ
多くありと聞きこ し召め
す。女子によし のほか、男子なんし
ならんをば、皆々失ふべし」 と仰せられたりければ、義朝、波多野次郎を招きて、 「母の相あひ
具ぐ し、乳母めのと
が懐いだ きて、山林に交まじは
りたらんいは力無し。京中にあらむずる少き者どもをば、皆尋ね求めて、失ふべし。中にも六条ろくでう
堀川ほりかは の四人の少き者ども、道の程、泣かせずして、船岡山ふなをかやま
に相具して、首を刎は ねて進まゐ
らせよ」 と宣のたま ひければ、義通よしみち
、 「口惜くちを しき御使ひを仕つかまつ
るものかな」 と思ひけれども、主命しゆめい
限りあれば、力及ばず、張は り輿ごし
用意して、五十騎にて、六条堀川へ行き向ふ。 |
また、内裏から左馬頭の許に、
「為義の子供が都に、幼少だが男女合わせて、まだ多く残っているそうだ。女子はともかく、男子は皆殺してしまえ」 と命令が下ったので、義朝は波多野次郎を呼び寄せて、
「母が連れ、乳母が抱いて、山林に逃げ込んだ者はしようがない。京の町中に留まっている幼い子供たちをことごとく探し出して、殺すがよい。なかでも、六条堀川の四人の子供につき、道中泣かせないようにして、船岡山に連れて行き、首を切れ」
と命じたので、義通は、 「これはまた気の進まない御使いを引き受けたものよ」 と思ったが、主君の命令とあらば従わざるを得ず、張り輿を用意して、五十余騎で六条堀川へ行き向かった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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