夜半
ばかりの事なれば、いづくをこそとは知らねども、東の方かた
へは行かずして、七条朱雀しゆしやか
へ引きて行く。波多野はたの 次郎、力者りきしや
どもに輿を舁か かせて、出い
で来き たりけり。鎌田、朱雀にて車より輿に乗り移りたまはん処ところ
を討ち奉らんと、太刀たち 構へ、待ちかけたり。波多野次郎は、未いま
だこの事よくも心得ざりければ、鎌田が袖そで
を控ひか へて云い
うふ様やう 、 「や、殿、これはいかなる御計はから
ひぞ。この事、惣そう じて心得ず。すでに失うしな
ひ奉らんとこにこそあんなれ。実まこと
に、入道殿の朝敵てうてき とならせたまふ事は、力及ばざる事なり。されども、今度、頭殿かうのとの
の大将軍を承うけたまは らせたまふといふも、誰故たれゆえ
ぞ。入道殿の御威勢なり。東国の輩ともがら
多く付き奉るといふも、また、入道殿の御譲りの故ぞかし。さこそ勅命ちょくめい
力無しといふも、正まさ しき父の頸をば争いか
でか斬き らせたまふべき。返す返すも口惜しき事かな。明日は天下の口遊くちすさび
となり、人に指を差されさせたまはんずる頭殿こうのとの
の御悪名あくみやう こそ心こころ
憂う けれ。抑そもそも
、昔、伊与いよ 殿どの
、相模守さがみのかみ にて、鎌倉かまくら
にわたらせたまひし時は、東とう
八箇国はつかこく の侍さぶらひ
、八幡殿はちまんどの を主しゆう
と頼まぬ者やありし。その子にてましませば、入道殿も我等われら
が主しゆう 、その子にてましませばこそ、頭殿こうのとの
も主しゆう なれ。中にも、和殿わとの
は入道殿の御跡懐あちふところ
にて生お ほし立てられ進まゐ
らせて、御好よしみ 深き人ぞかし。争いか
でかやみやみとして討ち奉らんとはしたまふぞ。助け奉るなでこそなくとも、せめては、かくと申して、最後の御念仏をも勧すす
め奉たてまつ りたまへかし」
と云ひければ、 |
夜半のことなので、方角はまったく見当つかなかったが、東には向かわず、七条西の朱雀に向かった、波多野次郎は、力者どもに輿をかつがせてやって来た。鎌田は、朱雀で腰車から輿に乗り移りなさるところを討とうと、太刀をかまえて、待ち受けていた。波多野次郎は、何も知らず、鎌田の袖を引いて、
「やや、殿、何をなさろうというのです。合点がいきません。入道殿をいよいよ亡き者になさろうとするのですか。確かに、入道殿は朝敵となり果てたが、これはどうしようもない。しかし、今度、頭殿が大将軍に任じられたのは誰のおかげか。ひとえに、入道殿のご威勢による。東国の武士が多く頭殿に従ったのも、また入道殿がお譲りになったからである。確かに勅命には抗しがたいが、実の父の首をどうして斬るいわれがあろうか。誠に残念なことである。明日にでもなると噂は広まり、人々に指さされ、頭殿の悪名でもちきりになるとは情けない。いったい、昔、伊予殿が相模守として鎌倉にいらした時は、東八箇国の侍どもは、すべて八幡殿を主と頼りにした。頭殿は伊予殿の子息なのだから、入道殿も我らの主、その子息でいいらっしゃるとあれば、頭殿も主ということになる。なかでも、あなたは入道殿に大事に養育され、かわいがられた。どうして、わけもなく討とうとなさるのか。お助けすることまではかなわないにしても、せめて、事情を説明して、最後の念仏を勧めるぐらいあってしかるべきである」
と諌言したところ、 |
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理ことわり
とや思ひけん、鎌田、 「さらば、和殿わとの
、その様やう を申したまへ」
と云い ふあひだ、義通よしみち
、車の轅ながえ に取り付きて、泣く泣く申しけるは、
「未いま だ知らせたまひ候はずや。頭殿かうのとの
の御承うけたまは りにて、正清が太刀取たちど
りにて、只今、車と輿こし の間にて討たれさせたまふべきにて候ふなるは」
とて、袖そで を顔に押し覆おほ
ひて、涙に咽むせ びてうつ伏ふ
しければ、入道、大きに驚きて、 「口惜しき事ござんなれ。義朝は、さては、だしぬきけるよな。あはれ、八郎がく謂い
ひつるものを。かくあるべしと知りたらば、六人の子供前後に立た
て、矢種やだね のあらむ限り射尽つく
くして、討ち死して、失う せたらば、名を後代こうたい
にあげまして、さては、犬死せんずるにこそ。こんどの合戦に院方ゐんがた
勝たせたまひたらば、いかなる勲功くんこう
・勧賞けんじやう にも申し替か
へて、などか義朝一人いちにん
を助けざるべき。あはれ、親の子を思ふ程、子は親を思はざりけるよ。 『諸仏しよぶつ
念ねん 衆生しゆじやう
、衆生しゆじやう 不ふ
念ねん 仏ふつ
、父母ぶも 常じやう
念ねん 子し
、子し 不ふ
念ねん 父母ぶも
』 と、仏の説と かせたまへるは、少しも違たが
はず。但し、かくはあれども、全く我が子悪わろ
かれとは思はぬなり。願はくは、上かみ
梵天ぼんでん 帝釈たいしやく
、下しも 堅牢けんらう
地神ぢじん に至りたまふまで、義朝が逆罪ぎやくざい
を助けさせたまへや」 と宣のたま
ひも終は てず、涙に咽むせ
びたまひけり。敷皮しきがは 半畳はんでふ
構かま へたれば、その上に下お
り居い て、 「汝等なんぢら
、思へかし、子を思ふ慣なら らひ、何いづ
れを分きて愚かなるべきにはなれけれども、六条堀川ほりかは
の当腹たうふく の四人の少をさ
なき者ども、殊更ことさら 不便ふびん
に思おぼ ゆるなり。相構あひかま
へて、これ等をば、義朝、申し助けて、よくは子とも思ふべし、悪あ
しくは斬りても捨てよ。弓箭ゆみや
取る者は、親した しきに過ぎたる方人かたうど
はなきぞ。彼等四人生お ひ立ちたらば、よき郎等らうどう
百人には替か へまじきなりと、よくよく義朝に云い
ふふべし」 とて、また涙に咽むせ
びたまふ。 |
鎌田も、確かにそうだと思ったのだろう、
「それでは、貴殿が事情を説明してくれ」 と言うので、義通は、車の轅に取り付いて、泣く泣く、 「まだお気付きではありませんか。頭殿のご命令により、正清が太刀を抜いて、たった今にも、腰車と輿の間で、討たれる手筈になっているのです」
と告げて、顔を袖で覆い、涙に咽んで顔をあげることが出来なかった。入道は大変驚いて、 「残念なことよ・義朝は、さてはだましたのだな。ああ、八郎はよく言い当てていたものよ。こうなるとわかっていたら、六人の子供に前後護られて、矢種のある限り、最後まで戦って後討死したならば、後世名をあげる事が出来たものを。犬死にで終わってしまうことになろうとは。今後の合戦で、院方が勝った時は、どのような勲功勧賞に引き替えても、どうして義朝一人の命助けないでおこうか。ああ、親が子のことを思うほど、子は親のことを思わないものだなあ。『諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、子不念父母』
と仏がお説きになっているのに、少しも変わりはない。ただし、このような仕打ちを受けても、我が子が不幸になればいいなどとは願わない。願わくは、上は凡天帝釈、下は堅牢地神に至るまで、義朝の逆罪を助けてくだされ」
と語るや、涙に咽んだ。半畳の敷皮が用意されたので、その上に座り、 「汝等も思ってみるがいい。どの子もかわゆく思うのが親の情というものであろうが、六条堀川の当腹の四人の幼い子供たちが、特にいとわいく思われてならない。ぜひ、この子らの助命のことを取り計らい、うまくいったら子供として養い、失敗したら、自ら斬り捨てよ。武士にとって、最上の味方は親類よ。彼ら四人が成長したあかつき、よい郎等百人に匹敵する者になろうと、よくよく義朝に伝えるがいい」
と言うや、また涙に咽んだ。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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