山野
の獣けだもの 、江河かうが
の鱗うろくづ に至るまで、命を惜しむ慣なら
ひなり。まして、人間には、命に過ぎて思ふ宝は何かある。独身どくしん
なる犯科人ぼんくわんにん の思ひ置く事なきだにも、足手あして
をもがれ、形をばやつさるれども、一日の命を賜た
べとぞ降かう は乞こ
ふ。况いは や、為義ためよし
法師ぼふし 、争いか
でか命を惜を しまざらん。思ひ者あまたありければ、腹々の子供も多かりけり。為義、日来ひごろ
願ひけるは、男子を六十六人儲もう
けて、六十六ヶ国に一人づつ置かんと思ひけれども、心に任まか
せぬ事なれば、男女なんによ 四十六人ぞ持ちたりける。嫡子ちやくし
義朝をば、熱田あつた 大宮司だいぐうじ
の聟むこ になしてけり。熊野くまの
別当べつたう 、住吉すみよし
の神主かんぬし をも聟に取る。その外の子供をも、面々めんめん
に、広からん中へ入れて、世にあらんとぞ思ひける。清和せいわ
天皇てんわう の御苗裔べうえい
、六孫王ろくそんわう の末葉ばつえふ
、鎮守府ちんじゆふ 将軍しやうぐん
頼義よりよし が孫、征東せいとう
将軍しやうぐん 義家よしいへ
が子息なり。昨日は御所方ごしよがた
謀反むほん の大将軍だいしやうぐん
、今日は出家の身なれども、人に弱げを見えじとて、押おさ
ふる袖の下よりは、漏れて涙ぞ流れける。 |
山野の獣、江河の鱗に至るまで、命を惜しむのが習いというものである。身寄りのない犯罪人で、この世に何思い置くことのなさそうな者でも、足や手をもぎ取られ、みにくい姿にされても、せめてあと一日の命をと願うものだ。まして、為義法師が命を惜しまないはずがない。愛した女性も多く、その腹に生まれた子供の数も多い。為義は、日ごろ、男の子供六十六人得て、日本六十六か国それぞれに一人ずつあてようと願ったが、思い通りにゆかず、男女計四十六人の子供を持っていた。嫡子義朝えを、熱田大宮司の聟にした。熊野別当や住吉の神主をも聟にとった。その他の子供たちもそれぞれに一族の者として引き取り、出世させようと願っていた。為義は、清和天皇の後胤、六孫王の末孫、鎮守府将軍頼義の孫、征東将軍義家の子息である。昨日までは院方謀叛の大将軍だっただけに、今は出家の身であるが、人に弱気を悟らせまいとして、袖で押さえ隠そうとするが、涙は漏れ出てくる。 |
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「哀あは
れ、老の終は てには、興ある事にも会ひけるものかな。伊勢いせ
平氏へいし が郎等どもに引き張られて、子供の面めん
をけがさんずらむと思ひたれば、吾が子の手に捕と
られ、相伝そうでん の家人けにん
の手に懸か かって失う
せなん事の不思議さよ。父を斬き
る子、子に斬らるる父、斬るも斬らるるも、宿執しゆくじふ
の拙つたな き事、恥づべし恥づべし、恨むべし恨むべし。さらば、はや、疾と
う仕つかまつ れ。夜明けなば、為義が斬らるる見んとて、上下集あつま
りたらんに、若も し斬り損じつるものならば、首をよう持ちて、悪あ
しう持ちてなど、沙汰さた せらるるこそ口惜くちを
しけれ。己等おのれら は相伝さうでん
の家人けにん なれば、縦たと
ひ悪あ しくとも、よも名をば立てじ。なじかはまた悪わろ
かるべき」 とて、西に向ひ、高声かうしやう
に念仏数十反すじつぺん 唱とな
えへ、手を合せて待ちけるに、正清まさきよ
も、相伝の主しゆう の頸討う
たん事、さすが怖しくや思ひけん、義通よしみち
にそれと言うふ。義通は、また、 「我は承らず」 とて、退の
きにければ、正清が郎等らうどう
、太刀を抜きて立ち廻まは り、しとと打う
つ。暗さは暗し、太刀の当あ て所どころ
少し下さ がりければ、玉懸たまか
け骨ぼね にぞ切り付けたる。入道、見返り見て、
「など正清は仕つかまつ らぬぞ」
とて、弥いよいよ 、念仏高声かうしやう
に唱とな へける処ところ
を、次の太刀には打ち落とす。 周防すはの
判官はんぐわん 李実すゑざね
、これを実検じつけん して、首をば義朝に返したまひてければ、躯むくろ
と共に輿こし に入れ、為義が山荘さんざう
、北白河きたしらかは 円覚寺ゑんがくじ
にして煙けぶり となし、心の及び弔とぶら
へども、五逆ごぎやく 深重じんぢゆう
の孝養けうやう 、亡魂ぼうこん
承う けずや思ひけん。 |
「ああ、老いの果てにとんだ目にあってしまった。敵の伊勢平氏に捕らえられて、子供に恥をかかせる事を恐れてはいたが、まさか、自分の子供に捕らえられて、相伝の家来の手にかかって殺されるとは思ってもいなかった。父を斬る子、子に斬られる父、斬る者、斬られる者、いずれにしても自分たちの宿執の不運なことは、何とも恥ずかしいこと、恨めしい事よ。早く斬れ、夜が明けると、為義が斬られるのを見ようと人々が多く集まってくるだろう。もし、斬り損じでもしようものなら、首の持ち方がいいの悪いの、あれこれ批判されるのは耐えがたい。汝ら相伝の家人だから、たとい失敗しても悪くは言われないだろう。また、失敗してとして、何悪い事があろうか」
と語り終わるや、西に向かい、高声に念仏数十遍唱え、手を合わせて、最後の時を待っていたが、正清も、相伝の主の首を斬ることはさすがに恐ろしく思ったのだろうか、義通に代わるよう命じた。義通は、やはり、
「自分は引き受けられない」 と辞退するので、正清の郎等が刀を抜いて近寄り、びしりと打ちおろした。あいにくの暗さに、太刀の当て所が少し下だったので、玉懸け骨に切り付けた。入道は振り返って、
「どうして正清は役を引き受けないのか」 とつぶやくや、ますます念仏を高声に唱えていたが、郎等も次の太刀では打ち落とした。 周防判官李実が実検したうえ、首は義朝の許に返した。そこで、死骸と一緒に輿に入れて、為義の山荘、北白河円覚寺で火葬にして、心の及ぶ限り弔ったが、五逆深重の者の供養とあれば、亡魂の受け入れるところではなかったろう。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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