法師になりたりける宿坊に過去帳
のありけるを見て、我が法名ほふみやう
を自筆に書き入れ、その下に一首の歌をぞ書き付けたる。 |
『梓弓あづさゆみ
はづるべしとも 思はねば なき人数ひとかず
に 予かね て入るかな』 |
|
さる程に、六人の子供、ここかしこにありけるが、父の行く末すゑ
のゆかしさに、山へ尋ね登りつつ、変か
はれる袖そで の色を見て、各々おのおの
袂たもと を絞りけり。その中に、八郎為朝ためとも
申しけるは、 「かうならせたまひても、御心弱く思おぼ
し召め すべからず。世間の慣な
らひ、必ずしも一准いちじゆん
ならず。高き処ところ を行く時もあり、低ひく
き所を行く時もあるべし。この事強あなが
ちに思し召し沈むべしとも存ぜられず。入道殿にふだうどの
は、余りに万よろづ につきて穏便をんびん
を存じ、心を卑下ひげ に振舞ふるま
はせたまへばこそ、今まで思ひ出い
で一つもましまさず、いとやすき受領ずりやう
をだにもせさせたまはぬぞかし。吾等われら
五、六人は、皆一方の大将軍だいしやうぐん
を承るべし。器用の若者どもが、おめおめと頸くび
を延の べて、降人かうにん
に出い づるに及ばず、また、出家遁世とんせい
して、乞食こつじき して、乞食沙門しやもん
の身となるべきにあらず。さのみ、また、かくても、いつを限りとも候はず。所詮しよせん
、為朝が計はか らひ申さんに付つ
かせたまふべし。 |
法師になった宿坊に過去帳があるのを見つけて、自分の法名を自筆で書き入れ、その下に一首の和歌を書き付けた。 | (出家の身となったからとて、厳しい探索逃れするすべはない。死の覚悟は出来ており、前もって過去帳に我が名を記すばかり) |
| さて六人の子供はあちこちに散り散りになっていたが、父の行方が気がかりで、比叡山に登ったところ、墨染めの衣を着ていたので、泣き悲しんだ。なかで、八郎為朝は、
「たとい出家の身になろうとも、弱気になられてはいけない。世間の習い、栄枯盛衰の波はある。高い所を行く時もあれば、低い所を行かねばならない時もあろう。あまり悲観なさるに及ばない。入道殿は万事あまりに穏便を心がけ、謙遜されてばかりいたので、これまで報われることもなく、あの軽い身分の受領にさえ就くことがなかった。我々兄弟五、六人は、それぞれ一方の大将をうけたまわりましょう。武芸に長けた若者が、おめおめと首を差し出し、降人となるなど論外。また、出家遁世して托鉢し、乞食僧になるなどは絶対にいけない。といって、このままではどうにもならない。ここは、為朝の考えに従っていただきたい。
|
|
これより急ぎ東国へ御下向げかう
あって、今度の合戦に参向さんかう
候はぬ三浦介みうらのすけ 義明よしあきら
、畠山庄司はたけやまのしやうじ
重能しげよし 、小山田別当こやまだのべつたう有重ありしげ
などを召し寄せて、仰おほ せ合はせられ、中坂東なかばんどう
に城郭を構へ、足柄あしがら ・箱根はこね
を打ち塞ふさ ぎ、四郎しらう
左衛門さゑもん 殿どの
をば奥州あうしう へ下くだ
し奉り、基衡もとひら に念珠ねず
の関を固かた めさせ、掃部助殿かもんのすけどの
をば海道かいだう の固めにさしおきたてまつり、六郎殿に甲斐かひ
の人々を差さ し副そ
へて、山道さんだう を指し塞ふさ
ぎ、七朗殿と九郎をば信濃しなの
の人々に相あひ 副そ
へて、北陸道ほくろくだう に差し向けて、入道殿をば法親王ほつしんわう
と仰あふ ぎ奉り、鎌倉に都を立てて、東とう
八箇国はつかこく の家人けにん
等ら 召し寄せて、大人おとな
しき侍さぶらひ どもをば、太政大臣だいじやうだいじん、左右大臣、大中納言になし、若き者どもをば、宰相さいしやう
、三位、四位、五位の殿上人てんじやうびと
になし、党たう の者どもをば、受領ずりやう
、検非違使けびいし になし置き、為朝、鎌倉の御後見うしろみ
してあらむずるは、昔、承平じようへい
に、将門まさかど が下総国しもつふさのくに
相馬郡さうまのこほり に都を立てて、我が身を平新皇へいしんわう
と号して、百官をほどほどになし置きたりけん有様ありさま
に、なじかは今も劣るべき。ただ下くだ
らせたまへ」 とぞ申しける。 |
ここから急いで東国へ下り、今度の合戦に参加しなかった三浦助義明、畠山庄司重能、小山田別当有重などを召集して、指揮をとり、中坂東に城郭を構え、足柄や箱根を封鎖し。四郎左衛門殿を奥州へ下し、基衡に念珠の関を警護させ、掃部助殿を海道に派遣、六郎殿に甲斐の人々を付き添わせて山道を封鎖し、七朗殿と九郎に信濃の人々を付けて北陸道に向かわせ、入道殿を法親王と崇めたてまつり、鎌倉に都を建てて、東八箇国の家人等を招集して、年配の侍を、太政大臣、左右大臣、大中納言に取り立て、若者どもを、宰相、三位、四位、五位の殿上人にし、党の者どもを、受領、検非違使に就け、為朝が鎌倉の御後見役をするかぎり、昔、承平年間、将門が下総国相馬郡に都を建て、我が身は平新皇と号して、百官をそれぞれ分際に応じて取り立てたという事情に、どうして今劣ることがあろうか。ここはひとつ、お出向きいただきたい」
と頼んだ。 |
|
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
リ |