〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/06/01 (金) 為 義 降 参 の 事 (一)

六条ろくでう 判官はんぐわん 為義ためよし東坂下ひがしさかした に有り」 ときこ えしかば、安芸守あきのかみ 清盛きよもり 、 「尋ね追討ついたう すべき」 よしおほくだ さるるあひだ、五百余騎をあい して、志賀しが辛崎からさきうら て、東坂下に発向はつかう す。在在ざいざい 所々しよしよ を捜す程に、三塔さんたふ大衆だいしゆ 起こって、これをいらつ。 「たと朝敵てうてき たてこも りたりと ふとも、衆徒しゆと れてこそ尋ぬべきところ に、無音ぶいん に乱れ入るのでう 、甚だその はれなし、かつう先規せんぎ ない、且は狼藉らうぜき なり、速やかに追ひ返すべし」 といきどほる。清盛、 「この事全く私の所行にあらず。勅命ちよくめい としてまか り向ふ」 由、返答しけれども、 「勅定ちよくぢやう たりと ふとも、いか でか先例をそむ くべき。謂はれなし」 とて、郎等らうどう 二人ににん から め取る。清盛、大衆だいしゆ に向ひ合戦を致すに及ばず、面目めんぼく を失ひ、引き返しけるが、大津おほつ 西浦にしうら在家ざいけ を焼き払ふ。これは、 「在地ざいち土民どみん 、昨日、判官を船に乗せて、箕浦みのうら へ送りたり」 と聞えけるによってなり。されども、その事僻事ひがごと にてぞありける。
「六条判官為義は東坂本に隠れている」 との情報があったので、安芸守清盛は、 「探し出して追討せよ」 との命令を受け、五百余騎を引き連れて、志賀や辛崎の浦を経て、東坂本に向かった。あちこち探しまわっているうち、三塔の大衆が結束して騒ぎ出した。 「たとい、朝敵が立て籠もっているにしても、ここは衆徒が探索すべきところ。それを何の挨拶もなく、乱れ入るなどはなはだけしからぬことよ。先例にも聞いたことがないし、狼藉きわまりない。さっさと追い出せ」 といきどおった。清盛は、 「これは私の計らいではなく、勅命によって出向いたもの」 と返答したが、 「勅命といっても、先例に背いていいわけがない」 と言って、郎等二人をめ取った。清盛は大衆相手に戦うわけにもいかず、面目を失って引き返したが、大津西浦の民家を焼き払った。昨日、在地の土民らが判官を船に乗せて、箕浦に送ったとの情報を得て、その腹いせである。しかし、その情報は誤りだったそうである。
為義、捜すところ にはなくして、三川尻みかわじり 五郎ごらふ 大夫たいふ 景俊かげとしもと に隠れ て、同十六日、五十余騎にて、三井みい でら 、東国へとて趣きけるが、天の責めをやかうぶ りけん、運命や尽きたりけん、箕浦みのうら にて、重病ぢゆうびやう を受けて、万事かうとぞおぼ えける。とかくして相扶あひたす けて、やうや う落ち行くほどに、 「官軍くわんぐん 、大勢にて追ひ来たる」 由聞えければ、わづ かにあひ したが郎等らうどう ども、みな せて、子供六人、郎等三、四人ぞ残りたる。あひ かま へてひがし 近江あふみ へ渡らんとしけれども、不破ふはの せき ふさ がりたる由申しけるあひだ、 「子供をば思ひ思ひになすべし」 とて、我が身はなほ引き返して、東坂下、五郎大夫がもと にありけるが、両三日の後、雑色ざふしき 花沢はなざはすす めによって、比叡ひえい ざん に登りて、東塔とうたふ南谷みなみだに る房に立ち入りて、出家しゆつけ 入道にふだう して、墨染すみぞめ めのそで にやつれにけり。昔は伊与いよ播磨はりま陸奥守むつのかみ をこそ望みしに、今はまた引き替へて、つゆ の身一つを置きわびて、雪のかしら り落とし、思はぬほか法名ほふみやう 付きて、義法房ぎほうぼう とぞ申しける。

為義は、清盛が探しまわった辺りではなく、三川尻五郎大夫景俊も許に隠れており。同十六日、五十余騎で、三井寺を経、東国へと向かったが、天運尽きたのか、箕浦で重病にかかり、もはやこれまでと思われた。ともかくいたわりながら、やっとのことで逃亡を続けたが、官軍が大勢で迫って来るとの情報が伝わると、わずかに従っていた郎等どもは皆逃げ散って、子供六人、郎等三、四人が残るだけとなった。何とかして東近江へ逃げ込もうとしたが、不破の関が封鎖されてしまったとの報告があり、 「子供たちはそれぞれの考えに従って行動するがよい」 と言って、自分は、引き返して、また東坂下の五郎大夫の許に潜んでいたが、二、三日して、雑色花沢のすすめで、比叡山に登り、東塔の南谷のとある房に立ち入って、そこで出家入道して、墨染めの衣に着替えていた。昔は、伊予・播磨・陸奥守を望んだほどの人にして、今は我が身一つ、身の置き所さえないありさまで、白髪の頭を剃り落とし、思いもよらぬ法名を付けるはめになり、義法房と言った。

この為義、十四歳の時、叔父をぢ 義綱よしつな 朝敵てうてき となりたりしをいけど りたりし勧賞けんじやう に、左衛門尉さえもんのじようになり、十八にて、栗子山くりこやま より奈良なら 法師ぼふし 追ひ返したりし勲功くんこう に、検非違使けびゐし してより以来このかたいづ れの国をもたま はるべかりしを、先祖の任国にんごく なりとて、陸奥むつ所望しよもう せしかば、 「なんぢ が祖父頼義よりよし 、その国のかみ たりし時は、十二年の合戦ありき。父義家よしいへ が任国の時は、後三年のいくさ あり。しか れば、汝が家に きては不吉の宰吏さいり なり」 とて、御許容なかりしかば、判官、 「陸奥の他は賜はりては何にかはせん」 と申しけるあひだ、余の国をも賜はらずして、既に六十に余るまで、地下ぢげの検非違使にてありしが、あまつさ へ、為朝ためとも鎮西ちんぜい の狼藉によって解官げくわん せられ、さきの 検非違使にてぞありける。さしも意趣いしゆ 深く思ひけん前途ぜんど をも達せず、後栄こうえい をもむな しくして、身をいたづ らになし てけん、心の中こそ悲しけれ。
この為義は十四歳の時、朝敵となった叔父義綱を生け捕った勧賞で左衛門尉になり、十八歳で、栗子山から奈良法師を追い返した勲功で検非違使に任命されて以来、ども国でも所望のままであったのを、先祖の任国であるゆえ、陸奥を所望しやところ、 「汝の祖父頼義がその国の守であった時は、十二年の合戦が起こった。父義家が任国の時は、後三年の戦が起こった。従って、この国の守は汝の家にとっては不吉の国司というもの」 とお許しが無く、為義は 「陸奥守のほかは、頂いてもどうということもない」 と申したので、他の国司に就く事もなく、六十近くになっても地下の検非違使のままであった。まして、為朝が鎮西で犯した狼藉によって解官させられ、目下のところ前の検非違使ということになる。あれだけ執心した前途に達することも出来ず、これからの栄達もとざされて、不遇なままで終わってしまったこと、為義の心の中、どんなに深く悲しみが渦巻いていたことだろうか。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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