翌
くる十三日、柞ははそ の森の辺あた
りより、図書允づしょのじよう
俊成としなり をもって、富家ふけ
殿どの に告げ申されたりければ、禅定殿下ぜんぢやうでんか、打う
ち傾かたぶ き、頤うなづ
かせたまひて、走り出い でても見み
進まゐ らせたくこそ思おぼ
し召め されけめども、世に御憚はばか
りありければ、御涙を抑おさ へ、
「昔より、氏長者うぢのちやうじやたる者、正まさ
しく弓箭きゆうせん に中あた
る事やはある。左様さやう の不運の者に対面あるべきや。目にも見ず、耳にも聞かざる方かた
へこそ落ち行かめ」 と仰おほ
せられも果は てず、御涙に咽むせ
ばせたまひけり。 俊成としなり
、帰り参りて、この由を申しければ、左大臣殿、聞きこ
し召め しあへず、御舌の先さき
を食ひ切りて、吐は き出い
ださせたまふ。 御心の中知りがたし。南都にて玄覚げんかく
律師りつし を尋ねけれども、なかりければ、玄顕得業げんけんとくごふにかくと告げたりけるに、急ぎ参じて、御輿こし
に舁か き乗せ進まゐ
らせ、南都へ入れ奉る。我が坊は寺中じちゆう
なりければ、人目おそろしとて、あたり近き小屋こや
に入れ奉り、様々やうやう に労いたは
り進まゐ らせ、重湯おもゆ
など進まゐ らせたれども、露つゆ
ばかりも御覧じ入れず、弥いよいよ
弱らせたまへば、玄顕、御枕まくら
の上に参りて、 「玄顕こそ参り候へ。得業こそ参り候へ。御覧じ知らせたまへりや」 と申せば、少しうなづかせたまふやうにせさせたまへども、一言いちげん
も御返事ぺんじ もなくて、やがて滅めつ
に入らせたまふ。悪あく 左府さふ
、三十七と申しし保元々年七月十四日午剋うまのこく
に、終つひ にはかなく失せたまふ。夜よ
に入りて後、般若野はんにやの
の五ご 三昧さんまい
に送り納め奉り、各々、散々ちりぢり
にこそなりてけれ。 |
翌十三日、柞の森の辺りから、図書允俊成をして、富家殿に報告させたところ、禅定殿下は頭をたれ、うなずいて、直ちに走り出て対面したく思ったが、世間を憚って、涙をこらえ、
「昔から氏の長者たる者で、合戦に臨んで矢に当たるなどする者がいるか。さような不運な者に対面できようか。自分にかかわりのないところへでも落ちて行け」 と言い捨てるや、涙にむせんだ。 俊成は帰り着いて、このことを報告したところ、聞くやいなや、左大臣殿は舌の先を食い切って吐き出した。御心の中いかばかりであったろうか。奈良で玄覚律師を尋ねたが不在だったので、玄顕得業にこの様子を知らせたところ、急いでやって来て、左大臣殿を輿に乗せて、奈良に運んだ。自分の坊は寺の中で人目に触れるということで、近くの小屋に入れて、あれこれ看病し、重湯などさし上げたが、少しも口にされず、ますます弱る一方であった。玄顕は枕もとで、
「玄顕が参りました。得業が参りました。おわかりですか」 と呼びかけたところ、少しばかりうなずくようにはなさったが、ひとことも御返事はなく、間もなく息が絶えた。左大臣、三十七歳で、ついにお亡くなりになった。夜になって、般若野の五三昧に運び、皆それぞれに散って行った。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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