〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/06/01 (金) 左府御最期 付けたり 大相国御歎きの事 (二)

蔵人くらんどの 大夫たいふ 経憲つねのり は、最後までの御宮仕みやづか へよくよく申しきは めて、かみ りて、禅定院ぜんぢやうゐんぢゆう しけるが、富家殿に参りて、この程の左大臣殿の御有様ありさまくは しく語り申しければ、 「わが身のさやうになるにつけても、いか ばかりかは子供の事おぼつかなく思ひつらん。今はかひ なき事なれども、 『摂政関白せつしやうくわんぱくをもして、天下てんか のことを執り行ふを見聞かん』 とこそ思ひつるに、惜しからぬおい の命はながらへて、先立ちつる事こそ悲しけれ。さりとも、命ばかりはと思ひつるに、心強くも見ざりしが、左府さふ は、いかばかりかはうら めしと思ひつらむ。かかるべしと思はば、世に恐れ、人にはばか りても、等閑なほざり の事にこそ。最後にいま一度見ざりつらんこそくやしけれ。さても、今度の合戦に、源平の中にもしか るべき者は一人いちにん も討たれたりとも聞えぬに、何者の放ちける矢なればにや、左府にしもあた りて、言ふにかひ なくなりぬらむ。漢の高祖かうそ は、三尺のけんひつさ げて、天下てんか を治めたまひしかども淮南わいなん黥布げいふうしな ひし時、流れ矢にあた りて命を亡ぼす。これ、また、前業ぜんごふ の果たすところ 、力及ばざるためし なり。倩々つらつら 史書ししよかんが ふるに、大臣誅戮ちゆうりく せらるる事、天竺てんぢく震旦しんだん げてかぞ ふべからず。日本我がてう には、つぶら の大臣より恵美ゑみ の大臣にいたるまで、既に八人なり。左府一人いちにん が事とは思はねども、遠流おんる の帰る事なきつみ には行はるとも、死罪にはよも当たらざらむ。西は鬼界きかい高麗かうらい 、雲の浪、煙の波をしの ぐとも、左府ありと聞き得なば、船にさを をもさしてまし。東は阿古流あこる津軽つがる俘囚ゑふ千島ちしま なりとも、左府住むと知るならば、こまむち を打ちぬべし。ただしやうへだ つる習ひこそ悲しけれや」 とて、御涙にむせ ばせたまひけり。 「蘇武そぶ胡国ここく に没せし、ゆひ漢帝かんてい竜顔りゆうがん を拝す。劉阮りうげん仙家せんか りし、なほ七世しちせ玄孫げんそんあひ たりき。すみか を他郷に隔つといへども、命あれば、みな めぐ り会ふ事を得たり。悲しきかな、生るる世に二度ふたたび 見ざりしその姿、うらめ しきかな、別れて後、いづ れの時をかたのむべき。老の心を悩ますは、子を先立つるなげ きなりけり」 と、御涙 きあへず、うち口説くど かせたまひければ、そのほかあや しのそで までも、ところせくこそなりてけれ。
そもそも 、左大臣殿、累葉摂?るいえいせつろくの家に まれて、万機ばんき 内覧ないらん宣旨せんじ を下され、器量きりやう 人に過ぎ、才芸さいげい 世に知られたまふ。されども、うぢの 長者ちやうじや の後、 しき御政のありけるかにて、春日かすが大明神だいみやうじん 捨て てさせたまひけりと、万人ばんにん した を返しけり。
蔵人大夫経憲は、最後までお仕えし、髪を切って禅定院にいたが、富家殿に出向き、この度の左大臣殿のご様子をくわしく報告したところ、 「我が身もこのようになってしまったが、それにつけても子供たちのことが気がかりでならない。今となっては甲斐のないことだが、摂政関白になって、天下の政治を執るだろうと期待していただけに、老いた自分を残して先立つことになろうとは悲しいことだ。それにしても、まさか死ぬとも思わず、心を鬼にして対面しなかったが、左大臣はどんなにか恨んでいたことだろう。こうなるのだったら、人目を恐れず、やさしくもてなしてやればよかったものを。せっかく機会がありながら、最後の対面をしなかったことが悔やまれる。今度の合戦で、源平武士たちのなかでも主立つ者は一人も討死していないのに、何者の射た矢なのだろうか。よりによって、左大臣に当って死ぬことになったのだろう。漢の高祖は、三尺の剣を提げて天下を治めたが、淮南の黥布を亡ぼした時、流れ矢に当って命を落とした。これは前業のなせることで、どうにも避けられない運命ということだ。よくよく史書に当ってみると、大臣が誅戮された例は、天竺、震旦ではたくさん目につく。日本国では円の大臣から恵美の大臣まで、すでに八人を数える。左大臣にだけこだわるわけではないが、再び召し還されることのない遠流の罪には処せられても、死罪に当るほどの罪ではあるまい。西は鬼界、高麗、どんなに遠いところであろうとも、左大臣が生きていると聞いたら出かけようものを。東は阿古流や津軽、蝦夷千島であろうとも、左大臣が住んでいると知ったら出かけようものを」 と、涙ながらに話された。重ねて、 「あの蘇武は胡国に捕らわれの身となったが、ついに漢帝との再会がかなった。劉阮は仙家に入ったにもかかわらず、七世の孫に会うことが出来た。異国に住み別れても、生きてさえいれば、みな再会できた。悲しいことよ、生きて二度と見ることが出来ないその姿、恨めしいことよ、別れて再び出会いの機会は得られない。老いての悲しみ、子に先立たれるほどの嘆きほどつらいものはない」 と、泣きくどかれるのを聞き、下々の者たちも泣き悲しんだ。
この左大臣殿は、代々摂?の家に生まれて、万機内覧の宣旨をいただき、その才能は人を超え、人々の称えるところであった。しかし、氏長者になった後は失政があったのだろうか、春日大明神に見捨てられてしまったと、人々は皆前言をひるがえすようなことを言い合った。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ