〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/05/30 (水) 新 院 左 大 臣 落 ち た ま ふ 事 (二)

このまぎれに、新院は遥かに びさせたまふ、左府は少しさがまゐ らせたまひけるが、いかなる者の放ちけるにや、白羽しらは の矢一つ流れ来て、左府の御くび の骨に立ちにけり。成澄、矢を抜き奉る。血のなが づる事、竹の筒より水を出すがごとし。白青しらあお の御狩衣かりぎぬ 、濃きくれなゐ に染めなせり。心神きもたましひ まど ひ、手綱たづな て、あぶみ をも踏ませたまはず、くら前輪まへわ に懸からせたまふ。しなら くはかか へ奉れども、馬ははやる、しゆう は弱らせたまひて、くづ れ落ちさせたまひけり。成澄もこぼれ落ちて、いだ きかかへ奉る。式部太夫しきぶのたいふ 成憲なりのり 、馬より飛び下りて、御頭をひざまゐ らせ、御顔にそで を覆ひまゐ らせ、泣き たり。御目ははたら かせたまへども、ものもおほ せられず。只今まではさしもゆゆしげに見えさせたまひつる御気色けしき ふにかひ なくなりたまふ。あさましなれども愚かなり。

この騒ぎにまぎれて、新院は遠く逃れなさった。左府は少し後に進んだが、誰が放った矢か、白羽の矢が一本飛んで来て、左府の首の骨に突き刺さった。成澄が矢を引き抜いた。流れる血は、竹の筒から水を出すような激しいものであった。白青の御狩衣が濃紅に染まった。気を失い、手綱を放し、鐙を踏みしめることも出来ず、鞍の前輪に寄りかかられた。成澄はしばし抱きかかえていたが、馬は勇み立つし、これに対して主君は弱りなさって、馬から崩れ落ちた。成澄も引きずられて落馬したが、そのまま主君を抱きかかえていた。式部大夫成憲が馬から飛び下り、左府の御頭を膝にかき乗せて、御顔を袖で覆って、泣いていた。左府は目を見開いていたが、ものもおっしゃらない。発った今まであれほど威厳にあふれていた御様子も無残な姿に変わり果てた。なんとも嘆かわしいかぎりである。

さき に打ちける家弘、これを見奉り、なほさき にありける平馬助へいまのすけまつさきかた へ落ちけるを、呼び返して、かくと告げたりければ、忠正ただまさ、 「あな、こころ 。世は今はかうにこそ」 とて、急ぎ取って返して、馬に せ奉らんとしけれども、乗りたまらせたまふべしとも見えざりければ、近辺なるところに き入れ奉り、きずくちあたた め奉り、疵をよくよく見ければ、左の耳の よりのど の方へさかさま に立ちたりけり。只事ともおぼ えず、かみ などにやあるらんとぞあや しみあへる。内裏だいり の官軍ども、これをも知らず、北白河きたしらかは 円覚寺ゑんがくじかた へ向ふまぎれに、蔵人大夫くらんどのたいふ 経憲つねのり が車を取り寄せて、乗せ奉り、嵯峨さが の方へ渡し奉る。経憲が父、顕憲あきのり が山荘の住僧ぢゆうそうたづ ねけれども、なかりければ、あたりなる小屋におろ し奉りて、日暮れにければ、今夜はここにとど まりぬ。
先を駆けていた家弘がこれを見つけ、なお先に進んでいた平馬助が松が崎の方へ向かうのを呼び戻して、このことを告げたところ、忠正は、 「おいたわしいこと、もはやこれまで」 と観念して、急ぎ引き返し、左府を馬にかつぎ乗せようとしたが、もはやお乗になれそうに見えなかったので、近くの家に担ぎ込み、傷口を温めて、よくよく見たところ、矢は左の耳の付け根から喉の方へ、逆さまに突き刺さっていた。ただごとではない、神の矢だろうかと皆不審がった。内裏の官軍どもはここに隠れていることに気付かず、北白川円覚寺の方へ追いかけて行くまぎれに、蔵人大夫経憲の牛車を取り寄せてお乗せし、嵯峨の方へお連れした。経憲の父、顕憲の山荘の住僧を尋ねたが不在だったので、近く小屋に下ろして、日も暮れたので、今夜はここに留まることにした。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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