このまぎれに、新院は遥かに延
びさせたまふ、左府は少し下さが
り進まゐ らせたまひけるが、いかなる者の放ちけるにや、白羽しらは
の矢一つ流れ来て、左府の御頸くび
の骨に立ちにけり。成澄、矢を抜き奉る。血の流なが
れ出い づる事、竹の筒より水を出すがごとし。白青しらあお
の御狩衣かりぎぬ 、濃き紅くれなゐ
に染めなせり。心神きもたましひ
眩く れ迷まど
ひ、手綱たづな を捨す
て、鐙あぶみ をも踏ませたまはず、鞍くら
の前輪まへわ に懸からせたまふ。暫しなら
くは抱かか へ奉れども、馬ははやる、主しゆう
は弱らせたまひて、頽くづ れ落ちさせたまひけり。成澄もこぼれ落ちて、抱いだ
きかかへ奉る。式部太夫しきぶのたいふ
成憲なりのり 、馬より飛び下りて、御頭を膝ひざ
に掻か き乗の
せ進まゐ らせ、御顔に袖そで
を覆ひ進まゐ らせ、泣き居ゐ
たり。御目は動はたら かせたまへども、ものも仰おほ
せられず。只今まではさしもゆゆしげに見えさせたまひつる御気色けしき
、云い ふに効かひ
なくなりたまふ。あさましなれども愚かなり。 |
この騒ぎにまぎれて、新院は遠く逃れなさった。左府は少し後に進んだが、誰が放った矢か、白羽の矢が一本飛んで来て、左府の首の骨に突き刺さった。成澄が矢を引き抜いた。流れる血は、竹の筒から水を出すような激しいものであった。白青の御狩衣が濃紅に染まった。気を失い、手綱を放し、鐙を踏みしめることも出来ず、鞍の前輪に寄りかかられた。成澄はしばし抱きかかえていたが、馬は勇み立つし、これに対して主君は弱りなさって、馬から崩れ落ちた。成澄も引きずられて落馬したが、そのまま主君を抱きかかえていた。式部大夫成憲が馬から飛び下り、左府の御頭を膝にかき乗せて、御顔を袖で覆って、泣いていた。左府は目を見開いていたが、ものもおっしゃらない。発った今まであれほど威厳にあふれていた御様子も無残な姿に変わり果てた。なんとも嘆かわしいかぎりである。 |
|
御先さき
に打ちける家弘、これを見奉り、なほ先さき
にありける平馬助へいまのすけ
が松まつ が崎さき
の方かた へ落ちけるを、呼び返して、かくと告げたりければ、忠正ただまさ、
「あな、心こころ 憂う
。世は今はかうにこそ」 とて、急ぎ取って返して、馬に掻か
き乗の せ奉らんとしけれども、乗りたまらせたまふべしとも見えざりければ、近辺なるところに舁か
き入れ奉り、疵きず の口くち
を温あたた め奉り、疵をよくよく見ければ、左の耳の根ね
より喉のど の方へ逆さかさま
に立ちたりけり。只事とも思おぼ
えず、神かみ 箭や
などにやあるらんとぞ恠あや しみあへる。内裏だいり
の官軍ども、これをも知らず、北白河きたしらかは
円覚寺ゑんがくじ の方かた
へ向ふまぎれに、蔵人大夫くらんどのたいふ
経憲つねのり が車を取り寄せて、乗せ奉り、嵯峨さが
の方へ渡し奉る。経憲が父、顕憲あきのり
が山荘の住僧ぢゆうそう を尋たづ
ねけれども、なかりければ、あたりなる小屋に下おろ
し奉りて、日暮れにければ、今夜はここに留とど
まりぬ。 |
先を駆けていた家弘がこれを見つけ、なお先に進んでいた平馬助が松が崎の方へ向かうのを呼び戻して、このことを告げたところ、忠正は、
「おいたわしいこと、もはやこれまで」 と観念して、急ぎ引き返し、左府を馬にかつぎ乗せようとしたが、もはやお乗になれそうに見えなかったので、近くの家に担ぎ込み、傷口を温めて、よくよく見たところ、矢は左の耳の付け根から喉の方へ、逆さまに突き刺さっていた。ただごとではない、神の矢だろうかと皆不審がった。内裏の官軍どもはここに隠れていることに気付かず、北白川円覚寺の方へ追いかけて行くまぎれに、蔵人大夫経憲の牛車を取り寄せてお乗せし、嵯峨の方へお連れした。経憲の父、顕憲の山荘の住僧を尋ねたが不在だったので、近く小屋に下ろして、日も暮れたので、今夜はここに留まることにした。 |
|
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
リ |