〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/05/29 (火) 新 院 左 大 臣 落 ち た ま ふ 事 (一)

家弘いえひろ光弘みつひろ 、御所へまゐ りて、馬に乗りながら庭上ていしやう に打ち立って、 「御所に かり候ひぬ。いくさ 既に破れて候ふ。出御出御しゆつぎよ あるべし」 と申しければ、新院しんゐん 、東西をうしな ひたまふ。左府さふ 、前後に迷ひたまふ。 「こは、さて、いかがすべき。家弘、あひかまへて、今度の御命ばかり助けよ」 とおほくだ されけるこそあさましけれ。四位しゐの 少納言せうなごん 成澄なりずみ を召して、御剣ぎよけんたま はる。即ちこれを きてけり。やが て御馬に す。蔵人くらんど 信実のぶざね 、御馬のしり に乗りて、いだ きかかへ奉る。左府の御馬の尻には、成澄なりずみの 朝臣あそん 乗りたりけり。 「さは、何方いづかた へ行くべきぞ」 とおほごと ありければ、 「三井みい でら の方へおもむ かせおはしますべき」 よし 申しけるあひだ、東門を でさせたまひ、北へむか ひて落ちさせたまふ。判官はんぐわん 以下いげともがら大略たいりやく 御供にさぶら ひけり。

家弘と光弘は御所に馳せ参って、馬に乗ったまま庭上に立って、 「はや御所に火がかかりました。戦はすでに敗れました。早くご退避してください」 と告げたので、新院はどうしたものかと途方にくれ、左府も前後不覚、どうにか、「どうしたものだろうか。家弘よ、ぜひ新院の御命ばかりでも助けてくれ」 とおっしゃったのは、あきれたことである。四位少納言成り澄を呼んで、御剣を受け取り、すぐこれを帯びなさった。直ちに馬にお乗りになったが、蔵人信実が馬の尻に同乗、新院を抱きかかえ申し上げた。左府の馬の尻には成澄朝臣が同乗した。 「さて、どちらへ向かうのか」 とおっしゃるので、 「三井寺の方へ向かうのがいいでしょう」 と申して、東門を抜け出て、北へ向かって逃げることになった。判官以下の者どもの大方はお伴した。

為義ためよし 子供を招きて、 「防矢ふせぎや つかまつ りて、きみ ばしまゐ らすべし」 とふく む。兄弟五拾騎ばかり残りとど まりて、院のいま だおはしますの由にもてなして、めぐ りて防ぎけるが、今ははる かに延びさせおはしますらんと思ひける時こそ御あと を追ひまゐ らせて落ち行きけれ。その時の戦ひにも、官軍くわんぐん ども多く討たれけれども、五拾騎の勢は、薄手うすで をだにも負はざりけり。
その中に、八郎為朝ためとも 、ただ一騎残りて、 「近付く者あらば、射殺さん」 と、しきりにあと を見返りて、しづしづと落ち行きけれども、追ふべき者もなかりければ、遥かに びたりけるが、取って返して、走り来て、表矢うはやかぶら一筋ひとすぢ 残りたるけるを、 「末代まつだい の者に見せん」 とて、宝荘厳院ほうしやうごんゐん の門の柱に とど めてぞ帰りける。
そもそも 、八郎為朝、このいくさ に、廿四 したる矢二腰ふたこし 、十八差したる矢三腰みこし 、九差したる 一腰ひとこし 、射たりけるが、義朝よしともかぶとほし けづ りたると、大庭おおばの 平太へいたひざふし 射切りたる 二筋ふたすぢ ならでは、あだ矢一つもなかりけり。そのほか 、手に けて命を失う者、数を知らず。されば、為朝、合手あひて の負けはなけれども、御方みかた の運に引かれつつ、落ち行きけるこそかなしけれ。
為義は子供を呼び集めて、 「自分は防ぎ矢を射る役をして、新院をお逃がししようと思う」 と言い含めた。兄弟ほか五十騎ほども残り留まって、院がいまだ御所にいらっしゃるようにつくろって馳せまわり防いでいたが、もう遠くまで逃げ延びなさったと思われる頃に、新院の後を追って逃げて行った。この時の合戦で官軍どもは多く討たれたが、新院方の五十騎は軽傷さえ負わなかった。
まかで、為朝はただ一騎、最後まで残り留まって、 「近付く者があったら射殺そう」 としきりに後を振り返りながら、ゆったりと逃れたが、追おうとする者もなかったので、はるか遠くまで逃げ延びていたのに、引き返し走り来て、表矢の鏑の一節残っていたのを、 「後代の者に残しておいて見せよう」 と言い放って、宝荘厳院の門の柱に射留めてまた戻った。
ところで、八郎為朝がこの合戦で、矢を二十四本差した箙二腰、十八本差した箙三腰、九本差した箙一腰射たが、なかで、義朝の甲の星を射削った矢と、大庭平太の膝頭を射切った矢の二筋以外は、無駄に終わった矢は一筋もなかった。そのほか、為朝の手にかかって命を失った者は多い。だから、為朝自身が戦って敗れたわけではないが、味方の運のつたなさに引かれて逃げのびることになったのは悲運であった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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