下野守
、目も眩く れ、心も乱れて、既に馬より落ちぬべかりけるに、鞍くら
の前輪まえわ を強く押おさ
へ、弓杖ゆんづゑ にすがり、鐙あぶみ
を踏み静めて、内甲うちかぶと
をさぐりまはすに、血も流れず、疵もなし。心地ここち
少すこ し安堵あんど
して、さりげなくもてなし、 「八郎は、聞きしには似ず、手こそあばらなれ。さすがに義朝程の敵かたき
をばかうは射んずるか。この定ぢやう
にては、八竜はちりゆう に裏うら
掻か かせん事はよも適かな
はじ」 と打う ち咲わら
へば、為朝、 「さん候ざうら
ふ。一の矢においては、旁々かたがた
存ずる旨が候ひて、態わざ と色代しきだい
申し候ひぬ。御鎧よろい をば八竜とは見て候ふよ。何にてもあれ、二の矢においては申し請う
けんずる候ふ。矢坪やつぼ を差して承うけたまは
り候はん。真向まつかう 、頸くび
の骨は恐れも候ふ。屈継くつけい
、弦切つるぎり 、弦走つるはしり
、障子しやうじ の板、脇楯わきだて
の上、ここを射よと、鞭むち の先さき
にて打う ち叩たた
きて、御前の雑人ざふにん を退の
けられ候へ」 とて、手ぐすねを引き、そぞろ引きてぞ向ひたる。 |
下野守は目もくれ、心乱して、あやうく落馬しそうになったので、鞍の前輪を強く押えて、弓を杖にしてすがり、鐙を踏みしめて、甲の内をさぐったが、血も出ていないし、傷もなかった。少しは心落ち着き、何事もなかったように装って、
「八郎は評判とは違って、技量はまだまだ。義朝ほどを射おおせる者はいまい。この分では、八竜の鎧の裏通るほど射ることはとても出来る事ではない」 と小ばかにしたので、為朝は、
「そのことよ。考えがあって、一の矢はわざと挨拶でとどめた。鎧が相伝の八竜とは見てとった。二の矢で射とめようと考えているのだ。矢坪をご指示あれ。顔や首の骨は恐れ多い。屈継、弦切、弦走、障子の板、脇楯の上、いずこなりとも、ここを射よと鞭の先でたたいてお示し下され、御前の雑人ども除けられよ」
と言いながら、手ぐすね引いて強く弓を引きしぼった。 |
|
下野守、
「矢風は以外もつてのほか にけはし。疵きず
付つ かぬこそ不思議なれ。奴やつ
は、一定いちぢやう 、今度は助けも置かず、射落してんず」
と思はれければ、聞かぬやうにもてなして、宝荘厳院の門の脇わき
へ引ひ き退しりぞ
きて、 「武蔵むさし ・相模さがみ
の若者ども、駆か け出い
でて、軍いくさ せよや」 とぞ下知したる。 その時、大庭おおばの
平太へいた ・同三郎、駆け出でたり。名乗りけるは、
「御先祖八幡殿はちまんどの 、後ご
三さんねん 年の御合戦に、鳥とり
の海うみ の城じやう
を落とされし時、生年しやうねん
十六歳にて、右の眼まなこ を射させ、その矢を抜かずして、答たふ
の矢や を射て、敵かたき
を討う ち、その名を後代こうたい
にあげ、今は神と祝ひたる、鎌倉かまくらの
権五郎ごんごらう 景政かげまさ
が四代の末葉ばつえい 、大庭庄司おおばのしやうじ
景房かげふさ が子、相模国住人大庭平太景能かげよし
、同三郎景親かげちか とは、我等われら
が事にて候ふ。御曹司おんぞうし
の九国くこく より召め
し具ぐ せられて候ふなる侍さぶらひ
どもの中には、さすが各々等おのおのら
に組むべき者こそ思おぼ え候はね」
とて、控へたり。 |
下野守は、
「矢風の激しさといったら大変なものだ。さっき傷つけられなかったのが不思議というもの。奴は、今度は助けようとはせず、きっと射落とすつもりに違いない」 と怖気付いて、何も聞かなかった振りをして、宝荘厳院の門の脇へ退いて、
「武蔵国と相模国の若者どもよ、賭け出て戦せよ」 と命令した。 その時、大庭平太、同三郎が駆け出して来て、名乗るには、 「御先祖八幡殿が、後三年の御合戦で鳥の海の城を攻略された時、生年十六歳で右目を射られたにもかかわらず、その矢を抜く間も惜しんで答の矢を射て敵を射とめて、その名誉を後代に伝え、今は神と祝い奉る鎌倉権五郎景政に四代の末孫、大庭庄司景房の子、相模国の住人大庭平太景能、同三郎景親とは我らがことよ。御曹司が九州から引き連れなさった侍どもの中に、相手としてふさわしい者は見当たらない」
と豪語して、控えていた。 |
|
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
リ |