〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/05/24 (木) 白 河 殿 攻 め 落 と す 事 (三)

鎌田、稀有けう の命助かりて、逃げ びぬ。京極きやうごくのぼ りに打ちとほ りて、下野殿の前に せ来たり、あへづきあへづき申しけるは、 「正清まさきよ 、大事の合戦度々どど つかまつ りて候へども、これ程に馬の駆足かけあし 騒がしき目にこそあひ候はね。この馬をば、日来ひごろ無双ぶさう逸物いつもつ と存じ候ひつるが、ただ一所いつしよ に躍る心地ここち してこそ候ひつれ、八郎御曹司、正清に一の矢を射られて、あま りのねた さに、たふ をばあそば ばし候はで、 『手捕てどり りにして いて捨てん。ねぢ切って捨てん』 とて、追ひ懸けさせたまひ候ひつるは、天のいかづちかぶと の上に かる心地して、目も れ、たましひ せ候ふ。馬よりも落つべく候ひつれども、運がつよ く候ひてこそ助かりて候へ。あな、おびたた しのせい や」 とて、いき たり。 下野守、 「正清が八郎と思ひて、おく してぞさはおぼ えつらん。八郎におきては、義朝、ひと てん。いか ばかりの事かあるべき」 とて、 でけるが、手綱たづな を控へて、 「そもそも 、今日十一日、寅剋とらのこく なり。東は指し当りたる ふさがりかた なり。その上、朝日に向ひて弓引かん事、便びん なかるべし。いささかかたたが ふべし」 とて、京極を下りに、三条までさが りて、河原を東へ打ち渡りて、北殿きたどの をば北に見なして、東のつつみ を上りに、北を指してぞ向ひける。

鎌田はやっとのことで命助かって、からがら逃げのびることが出来た。京極を北に通って、下野殿の前にやって来て、あえぎながら報告するには、 「この正清、危険な合戦にも度々従軍してきましたが、これほど馬の駆け足さわがしく逃げまわる目にあったことはございません。この馬は大変すばらしい馬と心得ていましたが、この度ばかりは、一所を躍り上がるばかりしているようで、逃げ足遅く感じられてなりませんでした。正清に一の矢を射かけられて、八郎御曹司は大変なくやしがりようで、答の矢もなさらないで、 『つかまえて八つ裂きにしたやる、首ねじ切ってやる』 と叫んで追いかけて来ましたが、その恐ろしさ、天の雷が甲の上に落ちかかって来たようで、目もくれ、魂も消え失せてしまいそうでした。あやうく落馬するところ、運強く助かったようなものです。ああ、恐ろしいことよ」 と、ともかく報告終わり、一息入れた。下野守は、 「正清は相手が八郎と思ってひるんだのだろう。ここはひとつ、あの八郎は義朝が射とめてやろう。たいしたことではあるまい」 と言い置いて、向かおうとしたが、手綱をゆるめて、 「今日は十一日、今、寅の刻である。具合の悪いことに、よりによって東は日塞の方角、まして、朝日に向かって弓を引くのはまずかろう。ここは少々方角を変えねばなるまい」 と言うや、京極を南へ、三条まで下がって、河原を東の方向に見やって、今度は東の堤を北に向かった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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