〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (中)

2012/05/21 (月) 白 河 殿 攻 め 落 と す 事 (一)

下野守しもつけのかみ二条にでう 河原がはら に控へたりけるところ に、惟行これゆき が馬、じんうち へ走り入りて、まは りけるを、鎌田かまだ 次郎じらう らせて、義朝よしとも の前へ て来て、 「これ御覧候へ。八郎御曹司おんざうし のあそばされて候ふなる弓勢ゆんぜい の程のおそろ しさよ。平氏が郎等らうどう の馬とおぼ え候ふ。たと番匠ばんじやうのみ にて打ち候ふとも、やはかたやす くこれ程通り候ふべき。あな、いかめの御事候ふや」 とあさみ たり。下野守、 「何条なんでふ さる事のあるべきぞ。八郎が義朝をおどさんとて、はかりごと にぞしたるらん。その冠者くわんじや 、今年は十七か八かにぞなるらん思ゆる。さまではやはつのるべき。鎮西ちんぜい そだ ちなれば、歩立かちだ ちはよかるらん。馬の上にて押し並べて組む処は、武蔵むさし 相模さがみ の若者どもにはいか でかまさ るべき。ただ け、ただ け。八郎においては、義朝なら はすべし」 とて、 で、駆けんとせられければ、鎌田次郎、 「これこそあるまじき御事にて候へ。大将軍だいしやうぐん の駆くる事は、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が五騎になる時こそ、力無き事にて候へ」 といさ めけれども、なほ はやり駆けんとしければ、足軽あしがる どもを四、五十人、馬の口、前後左右に取り付かせて、 「正清まさきよまか り向ひ候ひて、事のてい うかが ひ候ふべし」 とて、三十騎ばかりをあい して、門近く押し寄せて、 「この門をば、誰人たれひとかた めさせたまひて候ふやらん。こう申すは、今日の大将軍だいしやうぐん 、下野守殿の御乳母めのと 鎌田かまだの 庄司しやうじ 正致まさむね嫡子ちゃくし 、鎌田次郎、案内を承らんため に、守殿かうのとのおほ せをかうぶ りて、先立ちて、まか り向ひ候ふ」 とののし りければ、為朝ためとも 、 「 いたやつことば かな。さては、おのれ が一家の郎従らうじゆう にこそあんなれ、この門をば、為朝が固めたるぞかし。さこそ日来ひごろかたき となるとも、相伝さうでんしゆう に向ひて、いか でか矢を放つべき。下野殿のむか はれたらむ時、この返事はすべし。なんじ が敵対すべき為朝にあらず。狼藉らうぜき退しりぞ き候へ」 。鎌田、あざわら ひて、 「日来ひごろ は相伝の主、いま八虐はちぎやく凶徒きようと にあらずや。宣旨せんじ 既に限りあり。この矢は、正清が放つにあらず。八幡大菩薩はちまんだいぼさつ の放ちたまふ御矢なるべし」 とて、声に就きてひやうど射る。為朝、鎌田を見んとあふ のきたる左のほほ さきを けづ りて、かぶと鉢付はちつけいた にしたたかにぞ けたる。

下野守は二条河原に退いていたが、惟行の馬が陣営の中に逃げ込んで駆け回っているのを鎌田次郎がつかまえさせて、義朝の前に引いて来て、 「これご覧あれ、八郎御曹司の振る舞いと思われるが、その弓の勢のほどの怖しさよ。この馬は平氏の馬、たとい番匠が鑿で打ったとしても、これほど軽々とたやすく射通すことが出来ようか。なんとも見事な振る舞いよ」 とあきれ返っていた。下野守は、 「そんなことあるはずがない。八郎が義朝をおどそうとしてたばかったいるのだろうよ。その若者は今年十七か八になるはずだ。そんなに力がついているとは思えない。鎮西育ちなので、歩立ちは得意かも知れない。ただし、馬上の勝負、押し並んでの組討では、武蔵や相模の若者の技の方が上だろう。我にまかせよ、この義朝が八郎を仕込んでやろう」 と強がりを言って、駆け出そうとしたので、鎌田次郎は、 「それはいけません。大将軍自ら駆け出すということは、軍勢が討ちなされて、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が五騎となるなど、どうしようもなく切羽詰った時ぐらいのもの」 と諫めたが、聞き入れず、勇んで駆け出そうとしたので、足軽どもを四、五十人も、馬の口や前後左右に取り付かせて、 「正清がまず出向いて、敵の様子を探って来ましょう」 と言って、供の武士三十騎ほど引き連れて、門に近寄り、 「この門は誰が守護する門か。かく申すは、今日の軍を指揮する大将、下野守の乳母子、鎌田庄司正到の嫡子、鎌田次郎よ。先導役を果たさんが為、守殿のご命令を受け、皆に先んじて参った」 と大声張り上げたところ、為朝は、 「けなげな奴の言葉よ。さては同じく源家の郎従にちがいあるまい。この門は為朝が警護しているのだ。今は敵方になっているが、相伝の主に向かって、矢を射かけることがあっていいものか。下野殿と相対した時に、この返事は申そう。お前ごときが敵対できる為朝ではない。狼藉物めが、さっさと引き退け」 と叱りつけた。鎌田は冷ややかに笑い、 「日ごろは相伝の主たりとはいえ、今は八虐の凶徒になり下がっているのではないか。宣旨が出た以上、もはやかなうわけがなかろう。この矢は正清が放つ矢ではない。八幡大菩薩が放つ矢と心得よ」 と言い放つやひょうとばかり矢を放った。為朝が鎌田を見ようとふり向いた左の頬のあたりを射削って、甲の鉢付の板にずしりと当った。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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