下野守は二条河原に退いていたが、惟行の馬が陣営の中に逃げ込んで駆け回っているのを鎌田次郎がつかまえさせて、義朝の前に引いて来て、
「これご覧あれ、八郎御曹司の振る舞いと思われるが、その弓の勢のほどの怖しさよ。この馬は平氏の馬、たとい番匠が鑿で打ったとしても、これほど軽々とたやすく射通すことが出来ようか。なんとも見事な振る舞いよ」
とあきれ返っていた。下野守は、 「そんなことあるはずがない。八郎が義朝をおどそうとしてたばかったいるのだろうよ。その若者は今年十七か八になるはずだ。そんなに力がついているとは思えない。鎮西育ちなので、歩立ちは得意かも知れない。ただし、馬上の勝負、押し並んでの組討では、武蔵や相模の若者の技の方が上だろう。我にまかせよ、この義朝が八郎を仕込んでやろう」
と強がりを言って、駆け出そうとしたので、鎌田次郎は、 「それはいけません。大将軍自ら駆け出すということは、軍勢が討ちなされて、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が五騎となるなど、どうしようもなく切羽詰った時ぐらいのもの」
と諫めたが、聞き入れず、勇んで駆け出そうとしたので、足軽どもを四、五十人も、馬の口や前後左右に取り付かせて、 「正清がまず出向いて、敵の様子を探って来ましょう」
と言って、供の武士三十騎ほど引き連れて、門に近寄り、 「この門は誰が守護する門か。かく申すは、今日の軍を指揮する大将、下野守の乳母子、鎌田庄司正到の嫡子、鎌田次郎よ。先導役を果たさんが為、守殿のご命令を受け、皆に先んじて参った」
と大声張り上げたところ、為朝は、 「けなげな奴の言葉よ。さては同じく源家の郎従にちがいあるまい。この門は為朝が警護しているのだ。今は敵方になっているが、相伝の主に向かって、矢を射かけることがあっていいものか。下野殿と相対した時に、この返事は申そう。お前ごときが敵対できる為朝ではない。狼藉物めが、さっさと引き退け」
と叱りつけた。鎌田は冷ややかに笑い、 「日ごろは相伝の主たりとはいえ、今は八虐の凶徒になり下がっているのではないか。宣旨が出た以上、もはやかなうわけがなかろう。この矢は正清が放つ矢ではない。八幡大菩薩が放つ矢と心得よ」
と言い放つやひょうとばかり矢を放った。為朝が鎌田を見ようとふり向いた左の頬のあたりを射削って、甲の鉢付の板にずしりと当った。 |