悪源太義平は越前国
(福井県) まで下がっていたが、義朝の討たれたことを知って、親の仇を一人でも討ちたいものと都へ上り、平家をねらっているうちに、義朝の家来の志内
六郎景住 という者に出会った。志内はいまは平家に仕えていたが、義平に頼まれて協力を誓い、義平を下人に仕立てて三条烏丸の宿所にかくまった。しかし二人は怪しまれて平家に密告され、難波
二郎経遠 が三百余騎で押し寄せて来たので、義平は正面の敵を斬り伏せると、築地を飛び越えて行方をくらましてしまっや。 義平は夜になると、なおも六波羅に出没して平家をねらっていたが、同年正月二十五日、東近江
に下ろうとするところを、難波に見つけられ散々に戦ったが、小腕を射つけられ、六波羅へ引かれてしまう。 清盛が悪源太に向かって、 「わずか五十騎あまりの兵に、どうして生
け捕 られたのだ」 といえば、義平はあざ笑って、
「おまえも運が尽きれば同じことよ。義平ほどの敵を、暫くでもそのまま生かしておいてはわるかろうぞ、早々に斬れ」 というので、六条河原に引き出した。難波三郎恒房
が太刀を抜いて寄ると、義平は、 「よく斬れ。斬りそこなうと、きさまの顔に喰
らいつくぞ」 というので、 「斬られる者が斬る者の顔に喰いつけるか」 と答えると、 「いまは喰いつかずとも、百日中に雷になって、きさまを蹴殺してやる」 と言いながら、手を合わせて念仏したので、難波は後ろへまわって首を斬り落とした。 悪源太は時に二十歳、首は獄門に懸
けられた。 |