平家の軍兵は、信頼・義朝の私邸をはじめ、謀叛人の家々に押し寄せて、つぎつぎと焼き払ってしまい、巳の刻 (午前十時ごろ)
にはじまった合戦は、同じ日の酉
の刻 (午後六時ごろ) には早くも終わってしまった。 義朝が 「信頼は真っ先に落ちて行ったが、どこのいるのか」
と言っているところに、信頼は八瀬
(比叡山西麓の地) の松原で義朝を追いかけてきた。義朝は、 「日本に一の卑怯者
め。これほどの大事を思い立って、我らの命を亡ぼそうとする憎い奴だ」 と、大きな鞭で信頼の頬をしたたか打ちすえた。信頼の従者の式部
大夫 助吉
は、 「何者だ、殿を打つのは、お前らが強ければ、どうして敗けて逃げるのだ」 と言ったので、義朝は怒って、 「憎い奴め、討ち取れ」 というが、鎌田は、 「ここで同士討ちして、どうなりましょう。敵が参ります。早く早く」
と、義朝を急き立てて落とすのであった。 信頼は、八瀬の松原から都へ引き帰し、仁和寺の上皇を頼って助命を乞うたが、上皇の御力も及ばず、やがて召し取られて六条河原に引き据えられる。最後まで泣き騒ぐ信頼の首は、太刀もあてられないので、無理やりに押えて、掻き首にされてしまった。信頼の兄弟、基頼
・信時 をはじめ、謀叛人たちはそれぞれ流罪に処せられたが、官軍には任官式が行われて、清盛は正三位、重盛は伊与
守 にそれぞれ任ぜられた。 信西入道の子息十二人も、また配所へつかわされたので、
「信西の子息は、たとえ配所にいても許されてよいはずなのに、流罪とは心得がたい」 と批判する人もあったが、子息たちは、それぞれ都をあとにして配所をさして行った。こうした歎きの中で平治も二年になってしまった。 |