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あ らす じ

2012/05/08 (火) 義 朝 、 奥 波 賀 に 落 ち る 事

義朝は、片田かたた (滋賀県大津市堅田町) の浦へ出て琵琶湖を渡ろうとしたが、風が激しく舟も出なかったので退き返し、東坂本から瀬田をさして行った。家来たちには暇を取らせ、悪源太以下の源氏一家、鎌田以下の郎党など、わずか八騎になって落ちて行った。
兵衛佐ひょうえのすけ 頼朝よりとも はわずか十三歳、疲れのために馬眠りして一行からはぐれてしまう。義朝は気付いて鎌田を尋ねさせるが見つけることが出来ない。眼を覚ました頼朝は、真夜中にただ一騎で守山もりやま (滋賀県守山市)宿駅しゅくえき に着いたが、やがて野洲やす 河原がわら で鎌田に出会うことが出来た。
十二月二十八日の空はかきくもって雪が降り、風も激しく吹き出したので、義朝の一行は、まるで行く先も見ることが出来ない。とうとう馬も進まなくなったので乗り捨てると、源氏の重代の鎧も、みな雪の中に脱ぎ捨ててしまった。頼朝は、ここでまた一行にはぐれたので、義朝は嘆いて自害しようとするが、鎌田になだめられて、ようやく美濃みのの くに おう 波賀はか (岐阜県大垣市赤坂町青墓) の宿駅にたどり着いた。
この宿駅の長者、大炊おおい と申す者の娘延寿えんじゅ は、義朝が浅からず思っていた女である。この延寿の腹に夜叉やしゃ 御前ごぜん という十歳の息女がいた。義朝は夜叉御前を呼び出し、
「東国に下ったら迎えを出そう。もし自分が討たれたら後の世を弔ってくれ」 と言い含めて返したが、また悪源太と次男の朝長ともなが とを呼んで、 「義平は北国へ、朝長は信濃へ下れ。自らは東国に下り兵を集めて攻め上がる。三方から一手になって、平家を亡ぼし源氏の世にするのに何の疑いがあろうか」 というので、二人とも奥並賀を出発したが、朝長はきず と疲れで動くこともならず、再び引き返して来る。
そこで義朝は、敵に捕らえられるよりはと、人びとには隠して自ら朝長を手にかけ、大炊や延寿と別れを告げる。夜が明けて大炊は朝長の死を知り、涙ながらに死骸を煙にし、その菩提ぼだい を弔うのであった。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ