六波羅の皇居では公卿の評議が行われ、清盛をお召しになって、 「逆臣の亡びるこは疑いないが、新造の皇居には特別注意せよ。火災があれば公卿の御大事である。官軍がいつわって退去すれば、賊軍が進み出ようによって、そのとき、官軍を入れかえ、皇居を取り返して守護するがよい」
と仰せられたので、清盛はかしこまって、 「朝敵を亡ぼし御心
を休んじ奉るのも、今しばらくのことでございます」 と申し上げたが、まことに頼もしく思われた。 さて、清盛は六波羅に留まって君を守護し奉り、重盛以下の一族をはじめ、筑後守
家貞 以下の武士たちが三千余騎の軍勢を率い、六波羅を出陣して内裏へ向かった。 重盛は二十三歳、赤地の錦の直垂
に小烏 という名刀をはいて出で立ったが、
「年号は平治、都は平安城、我らは平家である。三事相応して、今度の合戦に勝つべきことは必定、勇んで進めよ、者ども」 と、三千余騎を三手に分けて押し寄せた。 内裏では東面
の陽明 ・待賢
・郁芳門 を開いて待ったが、平家は押し寄せると同時に、三千余騎で鬨
の声をどっとあげたので内裏中に響きわたった。すると、今まで堂々と見えた信頼は鬨の声におびえて、顔色が草の葉のように真っ青になり、南の階段をおりるのに、膝がふるえて容易におりられない。さて馬に乗ろうと引き寄せはしたものの、太りきった大の男が、大鎧は着ているし馬は大きいので、乗ることも出来ない。はやり立った駿馬は乗ろうとすれば、つっと駆け出すので、舎人
七、八人が寄って来て馬を押える始末である。一人の侍が、 「早くお召しくだされ」 と、信頼を押し上げたところ、左手のほうへ乗り越えて、庭にうつぶせに、どうと落ちてしまった。あわてて起こしてみると顔には砂がべったりとつき、少々口にも入り、鼻血は流れているし、とりわけおじけて見えた。義朝はこれを見て、
「あの信頼という臆病者は、おじけづいたな」 と、郁芳門へ向かって行ったが、やっとのことで馬にかき乗せられて、待賢門へ向かって行った信頼は、とうていものの役にも立ちそうになかった。このとき、重盛が五百余騎で押し寄せて来ると、案の定
信頼はたちまち退却してしまった。 義朝はこれを見て悪源太を呼び出し、 「信頼めが、あの門を破られたぞ。重盛を追い出せ」 と命じたので、義平はつづく鎌田と馬を並べて、門の入り口まで進み出て、 「この手の大将軍は何者か。かく申すは清和天皇の子孫、左馬頭義朝の嫡子、悪源太義平。いざ見参
しよう」 と、重盛の率いる五百余騎の真ん中へ割り込み、蹴散らして駆け抜けた。悪源太は端
武者 どもには目もくれず、重盛をねらって、大庭の椋
の木を中に立て、左近の桜・右近の橘をぐるぐる廻って十回ばかり追いかけ、重盛に組みつこうとするので、重盛の五百余騎は、わずか十七騎の悪源太に駆けたてられて、大宮
面 までざっと引き退いてしまった。 悪源太に追われた重盛は、主従三騎になって逃げのびたが、鎌田の射た矢が馬の腹に当って、馬から跳ね落とされてしまう。ここで源平主従入り乱れての乱闘になったが、重盛は家来の犠牲によって、かろうじて六波羅へ逃げにびた。十二月二十七日巳
の刻 (午前十時ごろ) のことである。 かねての作戦どおり、平家はみな六波羅へ退いたので、源氏は内裏から出払って平家を追い駆けた。その間に平家の主力は、内裏に入れかわり門を閉めてしまったので、源氏は内裏に帰ることも出来ず、六波羅へ押し寄せた。 |