〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
あ らす じ

2012/05/08 (火) 待 賢 門 合 戦 の 事

六波羅の皇居では公卿の評議が行われ、清盛をお召しになって、 「逆臣の亡びるこは疑いないが、新造の皇居には特別注意せよ。火災があれば公卿の御大事である。官軍がいつわって退去すれば、賊軍が進み出ようによって、そのとき、官軍を入れかえ、皇居を取り返して守護するがよい」 と仰せられたので、清盛はかしこまって、 「朝敵を亡ぼし御心みこころ を休んじ奉るのも、今しばらくのことでございます」 と申し上げたが、まことに頼もしく思われた。
さて、清盛は六波羅に留まって君を守護し奉り、重盛以下の一族をはじめ、筑後守ちくごのかみ 家貞いえさだ 以下の武士たちが三千余騎の軍勢を率い、六波羅を出陣して内裏へ向かった。
重盛は二十三歳、赤地の錦の直垂ひたたれ小烏こがらす という名刀をはいて出で立ったが、 「年号は平治、都は平安城、我らは平家である。三事相応して、今度の合戦に勝つべきことは必定、勇んで進めよ、者ども」 と、三千余騎を三手に分けて押し寄せた。
内裏では東面ひがしおもて陽明ようめい待賢たいけん郁芳門ゆうほうもん を開いて待ったが、平家は押し寄せると同時に、三千余騎でとき の声をどっとあげたので内裏中に響きわたった。すると、今まで堂々と見えた信頼は鬨の声におびえて、顔色が草の葉のように真っ青になり、南の階段をおりるのに、膝がふるえて容易におりられない。さて馬に乗ろうと引き寄せはしたものの、太りきった大の男が、大鎧は着ているし馬は大きいので、乗ることも出来ない。はやり立った駿馬は乗ろうとすれば、つっと駆け出すので、舎人とねり 七、八人が寄って来て馬を押える始末である。一人の侍が、 「早くお召しくだされ」 と、信頼を押し上げたところ、左手のほうへ乗り越えて、庭にうつぶせに、どうと落ちてしまった。あわてて起こしてみると顔には砂がべったりとつき、少々口にも入り、鼻血は流れているし、とりわけおじけて見えた。義朝はこれを見て、 「あの信頼という臆病者は、おじけづいたな」 と、郁芳門へ向かって行ったが、やっとのことで馬にかき乗せられて、待賢門へ向かって行った信頼は、とうていものの役にも立ちそうになかった。このとき、重盛が五百余騎で押し寄せて来ると、案のじょう 信頼はたちまち退却してしまった。
義朝はこれを見て悪源太を呼び出し、 「信頼めが、あの門を破られたぞ。重盛を追い出せ」 と命じたので、義平はつづく鎌田と馬を並べて、門の入り口まで進み出て、
「この手の大将軍は何者か。かく申すは清和天皇の子孫、左馬頭義朝の嫡子、悪源太義平。いざ見参けんざん しよう」 と、重盛の率いる五百余騎の真ん中へ割り込み、蹴散らして駆け抜けた。悪源太は 武者むしゃ どもには目もくれず、重盛をねらって、大庭のむく の木を中に立て、左近の桜・右近の橘をぐるぐる廻って十回ばかり追いかけ、重盛に組みつこうとするので、重盛の五百余騎は、わずか十七騎の悪源太に駆けたてられて、大宮おおみや おもて までざっと引き退いてしまった。
悪源太に追われた重盛は、主従三騎になって逃げのびたが、鎌田の射た矢が馬の腹に当って、馬から跳ね落とされてしまう。ここで源平主従入り乱れての乱闘になったが、重盛は家来の犠牲によって、かろうじて六波羅へ逃げにびた。十二月二十七日 の刻 (午前十時ごろ) のことである。
かねての作戦どおり、平家はみな六波羅へ退いたので、源氏は内裏から出払って平家を追い駆けた。その間に平家の主力は、内裏に入れかわり門を閉めてしまったので、源氏は内裏に帰ることも出来ず、六波羅へ押し寄せた。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ
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