同十二月十九日、内裏では公卿たちの評議が催された。左衛
門督 藤原
光頼卿 は、近ごろ信頼の態度があまりにも潜越
であるといって、会議の席にも出て来なかったが、このたびは参内して承ろうと、乳母
子 の右馬允
範能 を引き連れ、
「万一の事があったならば、一手にかけずお前の手で首をとれ」 と命じ、兵たちの厳しく警護しているところを、ものともせずに、声高く先払いさせてお入りになったので、兵たちも恐れて、弓を伏せてお通し申しあげた。 殿上では信頼が上座を占めて、その他の公卿たちが居流れている。光頼は左大弁の宰相
長方 に、 「今日の御座席の次第は乱雑なことで」
と挨拶して、 「信頼は右衛
門督 、自分は左衛
門督 である。人はどうあろうとも、彼の下座に着くまいものを」
と思われたので、信頼の座上にどっかと着かれた。光頼卿は信頼の母方の伯父でもあり、大力の人であったから、信頼卿もひどくおそれ、伏目になって顔色を変えてしまった。 光頼卿は笏
を取りなおして改まった調子で、「公卿の会議と承って参りましたが、何の評議でどざいましょうか」 とおっしゃるが、だれも一言も出さない。光頼卿は、 「参上して悪かったようだ」
と、さっさと出て行かれたが、これに対しても何という人もいない。これを見ていた兵たちがいうには、 「光頼卿は、よくぞおやりになった。去る十日以来、信頼卿の上
に着座された方は一人もなかったのに、すばらしいお方だ。このお方を大将にいだいたら、どんなによかろう」 といい、また 「むかし頼光
・頼信 という、すばらしい源氏の将軍があったが、その頼光という名をうち返して、光頼と名乗られたので、これほど剛勇でいらっしゃるのだ」
といえば、 「それではなぜ、頼信をうち返して信頼と名乗った人が、あれほど臆病なのだろう」 と、いう者もあったということである。 さて光頼卿は、 「弟の別当
惟方 を呼んで、 「公卿の会議が催され、参上しない者は死罪と承ったが、別のこともなかった。そなたは検非違使の別当という特別重要な職にありながら、信頼の車の尻に乗って、信西の首実検をしたりしたのは口惜しい事だ。今後は、君のために間違いのないようにはからうがよい。清盛は熊野から引き返して、今日明日のうちに都へ入ると聞いている。大軍が押し寄せて来るのは、もうすぐのことだ。ところで、
「主上は何処 におわしますか」
と聞くと、惟方は、 「黒戸
の御所に」、 と答えた。 「上皇は何処に」 「一品
御書所 に」、
「神璽 宝剣
は何処に」 「夜の御殿
に」 「内侍所
は」 「温明殿
に」 、 「中宮は何処に」 「清涼殿
に」、「さらば櫛形
の窓に人の姿がして、天皇の御食事所に人声がするのはだれか」 「御食事所には信頼が住んでおりますので、女房たちの声でござりましょう」 と申されたところ、光頼卿は涙を流し、
「何という情けない世に生まれあわせたことだろう。昔の賢人にならって、けがれた耳を洗いたいくらいだ」 とおっしゃって、上衣の袖をしぼるほどお泣きになり、いまいましそうに出て行かれたので、惟方は、だれかが聞いていなかっただろうかと恐ろしくなってきた。
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