信西は、もともと藤原
武智 麿
の家系を享 けて生まれたのだが、長門守
高階 経俊
の養子となった。儒官にも太政官僚にもならず、日向守
通憲 として、何くれとなく召し使われたが、あるとき御前へ参上するために、鬢
をかこうとして水に写った面相を見て、剣難のあることを知って以来、出家の志があり、少納言のお許しを得て少納言入道と呼ばれるようになった。子息たちは中将・少将にまで出世し、人もうらやむところであったが、今や明日の命さえ測られぬ運命となっていたのである。 同九日の午
の刻 (午前十二時ごろ) 、信西は白い虹が太陽を貫くという、天下兵乱の予兆を知って御所へ参ったが、たまたま御遊の最中であったので宿所に帰り、妻の紀伊
二位にこの事を語ると、急に奈良の方へ落ちて行き、伊賀
(三重県北西部) と山城
(京都府東南部) との国境にある田原という所へ入った。やがて都から三条殿夜討のことが伝えられると、信西は自分の予感があたったことを知ったので、地中深く穴を掘らせて、その中に入り、大きな竹筒を口に当てて埋もれてしまった。 |