明けて十日には公卿の評議が催され、これによって信西の子息たちが尋ね出され、清盛の婿になっていた中将成憲
以下が捕らえられた。また任官式が行われて、信頼は望みどおり大臣・大将を兼ね、義朝は播磨国
を賜って播磨 左馬頭
となった。 義朝の嫡子、悪源太
義平 は、都に騒動ありと聞いて、馬に鞭打って馳せ上ってきたところ、ちょうどこの任官式に間に合った。信頼は喜んで、
「義平が、この場に参り会うのは幸いである。大国か上国か、望みに任せよう。官職・位階も昇進させよう。合戦を立派にやり遂げてくれ」 というので、義平は、 「保元の乱の最中、伯父の八郎為朝を、宇治左大臣が蔵人にされようとしたとき、あわただしい任官よ、と申して辞退したのも道理である。任官より軍勢を賜りたい。阿倍野
(大阪市住吉区) まで駆け向かって、熊野から帰って来る清盛を取り囲んで首を刎ね、信西を滅ぼした上で、大国も上国も思うさま戴こうものを。それまで義平は、もとのままの悪源太と呼ばれたいものだ」
と言い切った。 信頼は、 「粗暴なことを言う。阿倍野まで馳せ向かって、馬の足を疲れさすまでもない。都へ入れて中に取り込めて討とうに、何ほどのことがあろうぞ」
と、義平の意見を退けてしまったが、これこそ信頼の運の尽きであった。 太政大臣伊通公
は、そのころ左大将であったが、 「内裏では、何の戦功もない武家に、官位を昇進させられたというが、人を殺しただけで官職を与えられるのなら、多くの人をはめ殺した三条殿の井戸は、なぜ官職につけられないのか」
と笑ったということである。 |