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あ らす じ

2012/05/07 (月) 信 頼 ・ 信 西 不 快 の 事

近ごろ都に権中納言藤原朝臣ふじわらのあそん 信頼のぶより という人がいた。藤原ふじわらの 道隆みちたか の子孫で、伊与いよ 三位忠隆ただたか の子である。この信頼は文武の道にもうとく、能もなく芸もないのに朝恩をほしいままにして、わずか三ヵ年の間につぎつぎと昇進し、二十七歳で中納言右衛うえ 門督もんのかみ まで出世したが、さらに大臣の大将に望みをかけ、目にあまる振舞いが多かった。
同じころ、また少納言入道信西しんせい という者がいた。鳥羽院の御代みよ文章生ぶんじょうしょう から蔵人くらんど になった藤原ふじわらの 実兼さねかね の子である。儒者の血統をうけながら、その家業は継がなかったが、諸道を学んで当時並ぶ者のいない知識人であった。そのうえ後白河院の御乳母めのと 紀伊きいの 二位にい の夫であったから、天下の政争に関与し君を補佐し奉って、延喜えんぎ天暦てんりゃく の時代にもおとらぬ聖代をもたらした。
保元ほうげん 三年 (1158) 八月十一日、後白河院は御位を二条院にお譲りになったが、信西の権勢はいよいよ強く、飛ぶ鳥も落とすほどであった。ところが、どういうきっかけからか、この信西と信頼とは敵意を抱き始め、互いに何とかして相手を亡ぼそうと考えるようになった。
あるとき、後白河院が信西を召されて、 「信頼が大臣の大将を望んでいるが、どう思うか」 と御下向になった。
信西は、 「信頼が大臣の大将になれば、だれでもが、この地位に望みをかけるようになりましょう。そのような昇進は前例もなく、後世まで非難の的となるでございましょう」 と答えた。信頼は、このことを洩れ聞いて心外と思い、それ以後は病と称して伏見にひきこもり、馬に乗りながら弓引き・組み討ちなど、専ら武芸の道を習ったが、これもみな、信西を亡ぼすための企てであった。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ
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