近ごろ都に権中納言藤原朝臣
信頼 という人がいた。藤原
道隆 の子孫で、伊与
三位忠隆 の子である。この信頼は文武の道にもうとく、能もなく芸もないのに朝恩をほしいままにして、わずか三ヵ年の間につぎつぎと昇進し、二十七歳で中納言右衛
門督 まで出世したが、さらに大臣の大将に望みをかけ、目にあまる振舞いが多かった。 同じころ、また少納言入道信西
という者がいた。鳥羽院の御代
に文章生 から蔵人
になった藤原 実兼
の子である。儒者の血統をうけながら、その家業は継がなかったが、諸道を学んで当時並ぶ者のいない知識人であった。そのうえ後白河院の御乳母
紀伊 二位
の夫であったから、天下の政争に関与し君を補佐し奉って、延喜
・天暦 の時代にもおとらぬ聖代をもたらした。 保元
三年 (1158) 八月十一日、後白河院は御位を二条院にお譲りになったが、信西の権勢はいよいよ強く、飛ぶ鳥も落とすほどであった。ところが、どういうきっかけからか、この信西と信頼とは敵意を抱き始め、互いに何とかして相手を亡ぼそうと考えるようになった。 あるとき、後白河院が信西を召されて、
「信頼が大臣の大将を望んでいるが、どう思うか」 と御下向になった。 信西は、 「信頼が大臣の大将になれば、だれでもが、この地位に望みをかけるようになりましょう。そのような昇進は前例もなく、後世まで非難の的となるでございましょう」
と答えた。信頼は、このことを洩れ聞いて心外と思い、それ以後は病と称して伏見にひきこもり、馬に乗りながら弓引き・組み討ちなど、専ら武芸の道を習ったが、これもみな、信西を亡ぼすための企てであった。
|