〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/15 (火) 官軍勢汰せいぞろ への事並びに主上参上殿に行幸の事 (一)

内裏だいり 高松殿たかまつどの には、主上しゆしやう南殿なでん出御しゆつぎよ なりて、公卿くぎやう 僉議せんぎ あり。
少納言せうなごん 入道にふだう 信西しんぜい末座ばつざこう ず。そで ちひ さなる浄衣じやうえ に、家に伝へたる小狐こぎつね といふ木工むく ざや太刀たち をぞ きたりける。そもそも、開闢かいびやく より以来このかた出家しゆつけじん 禁中きんちゆう出入しゆつにふ する事、千規せんぎ すこぶまれ なり。
昔、称徳しようとく 天皇の御宇ぎよう弓削ゆげの 道鏡だうきやう と聞えし僧、如意によい 輪法りんほふ 成就じやうじゆ せし故に、みかど寵愛ちようあい はなはだ しくして、太政大臣だじやうだいじん の位を授けられ、禁裏きんり祗候しこう せしは、別段べつだん の事なり。今日こんにち の儀式、まことめづら かにぞ見えし。されども、この禅門ぜんもん諸道しょだう兼覧けんらん して、ざえ 文武ぶんぶ を兼ねたり。治乱ちらん 二つのまつりごと故実こしつ を存ぜし故に、その人なくてしも難治なんぢ の次第なるべければ、力及ばざる事とぞ見えたり。
内裏高松殿では、南殿に天皇がお出ましになり、公卿の会議があった。少納言入道信西は末席につら なっている。袖の短い浄衣を着、家伝来の小狐という太刀を木工鞘に納めて帯していた。それにしても、出家した者が宮中に出入りするなどあまり聞いたことがない。昔、称徳天皇の御代、弓削道鏡なる僧が、如意輪法を成就したとして天皇のご寵愛深く、太政大臣の位を授けられて宮中に出入りしたのは、異例というべきであろう。従って、今日の信西入道列席の会議などあまり例のないことである。しかし、この入道はあらゆる道に通じ、文武両道の達人であった。治乱いずれにしても政治の故実に詳しく、この人を欠いては執政にとどこおりがありそうで、いたしかたのないことかというのが大方の意見である。
信西、宣旨せんじうけたまは りて、下野守しもつけのかみ を召されけれ。義朝よしとも は、赤地あかぢにしき直垂ひたたれ に、脇楯わいだて 具足ぐそく ばかりにて、太刀たち 帯きたり。
烏帽子えぼし 引き立て、庭上ていしやうひざまづ き、かしこま りてぞ候ひける。信西、おほ せ下しけるは、 「なんじ親父しんぷ 兄弟を捨て、御方みかた参候さんこうでうもっと叡感えいかん はなはだし。しか れば、今度の大将だいしやう におきては、汝にたま ふ。忠功ちゆうこうぬきん んでば、日来ひごろ 所望しよもう昇殿しようでん不日ふじつゆる さるべきなり。そのむね存知ぞんち つかまつり候へ」 。義朝畏り申しけるは、 「家に申し伝ふ事候ふ。合戦の庭に でて、死は案のうち の事、生は存のほか の事なり、と。しかるに、懸命におきては、故院の御遺命ゆいめい 並びに宣旨のおもむき に替はり候ふ。なた、かばね を戦場にさら さん事、只今ただいま なり。生きて二度ふたたび 帰参きさん すべくはこそ、後栄こうえい をも し候はめ。天運てんうんまか するよりほか は、頼み少なき命なり。後日に勅許ちよくきよ あるべくは、ただいま宣旨を仰せ下すべしとおぼ え候ふ。そのゆえ は、年来ねんらい の所望達しぬと存ずるならば、いま少し勇む心も候ふべし。所望を達せず、二つなき命を捨てむ事、かつう妄念まうねん ともなり、且は無念にも候ふべし」 とて、階下に近く進み寄る。
信西は宣旨をいただいたうえで、下野守義朝を招き対面した。義朝の出で立ちは、赤地の錦の直垂に、脇楯、小具足だけで、太刀を帯していた。烏帽子を引き立て、庭上にひざまずきひかえていた。信西は、 「汝、親父兄弟とは別行動で、味方に参上のこと、天皇もお喜びである。そこで今度の大将を命ずる。際立つ働きを示したならば、以前から所望の昇殿も直ちに許されよう。承知しておくように」 とおっしゃる。義朝はかしこまり、 「家の言い伝えに、合戦に臨んでは死んで当然、生き残るなど考えてはならないとある。我が命は、故院のご遺言と宣旨のご命令に捧げようと思う。戦いで死すとは今をおいてない。生きて帰れたら栄誉もまのあたりにすることが出来ようが、天運に任せるより他頼みすくない命、後日にお許しが出るのであれば、たった今にも昇殿を許すとの宣旨を頂きたく思う。長年の望みも達成されたとあらば、今以上に勇み立つというもの。大事な命を捨てるに際し、妄念を持ちたくないことであるし、心安らかに死にたいものだ」 と言いながら、階下に近く迫った。
信西、 「これこそ難儀なんぎ次第しだい なれ。義朝が先祖頼義よりよし義家よしいへ朝敵てうてき を平らげ、昇殿をゆる さるといへども、親父しんぶ 為義ためよしいままさ しき地下じげ検非違使けびいし たり。その子として、たちまち昇殿聴されん事、いかがあるべかるらん」 と奏しければ、 「乱世には武をもってしづ むべしといふ本文ほんもん あり。世既に乱れたり。義朝を抽賞ちうしやう せずはあるべからず」 といふ宣旨くだ りけるうへは、子細しさい に及ばず。すなはち、その姿を改めず、兵杖ひやうぢやう を帯しながらきざはしなか らばかり ぢのぼる。昇殿の儀式、まこと に珍かにして見えし。昇殿はこれ象外しやうぐわいせん なり。俗骨ぞくこつ もつて蓬莱ほうらい の雲を踏むべからず。尚書しやうじよ はまた天下の望みなり。庸才ようさい もつて台閣たいかく の月を づべからずと聞えしかども、今日始めて殿上てんじやう の御ふだ に名を残しけるは、六孫王ろくぞんわう より伝はれる弓箭きゆうせん面目めんぼく とぞ見えし。
信西が、 「何とも難問の出来しゅったい したことです。義朝の先祖頼義、義家が朝敵を平らげた功により昇殿を許可されたといっても、父為義はまだ地下の身分、検非違使に過ぎない。その子として、突然昇殿を許されるなどいかがなものでしょう」 と奏上したところ、 天皇は、 「乱世にあっては、武をもって鎮めるしかないという。今の世が乱れている以上、異例ではあろうが、義朝を抜擢ばってき せねばなるまい」 と院宣を下されたので、これで決まりとなった。義朝は直ちに軍装を変えることなく、武器を携えたまま、階段を半ばまで昇った。まことに珍しい昇殿の儀式であった。 「昇殿是象外之選也。俗骨不可以踏蓬莱之雲。尚書亦天下之望也。庸才不可挙台閣月」 とはかねて聞いていたことであるが、今日はじめて殿上の御簡に名を残したことは、六孫王を先祖に仰ぐ武勇の家の面目と思われた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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