〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/12 (土) 新院御所各門々固めの事 付けたり 軍評定の事 (一)

同じき十日、新院しんゐん斎院さいゐん の御所より北殿きたどの へ入らせたまふ。左府さふ 、御車にまゐ らせたまふ。やがてこの御所を城郭じやうくわく として、つはもの どもを召されて、門々もんもん を分けかた めらる。
大炊おほい 御門みかど両門りやうもん あり。東のかた の門をば、へい 右馬助うまのすけ 忠正ただまさ多田ただの 蔵人くらんど 頼兼よりかねうけたまは りて固めたり。西のかた の門をば、八郎為朝ためとも 一人、これをうけたまが る。西面にしおもて は川原なり。為義ためよし 、子供あひ して固めけり。北面きたおもて春日かすが の末、家弘いえひろ光弘みつひろうけたまは る。そのほか、脇々わきわき小門こもん をば、次々の兵ども、各々これをspan>うけたまはりて、思ひ思ひに固めたり。およそ、院中ゐんちゅう の御勢千余騎ありけれども、御所は広し、方々ほうばう へ分け遣はしたりければ、いづくにも人ありとも見えざりけり。新院・左府、御着背きせ なが を召されたり。教長のりなが まい らせて、 「太上だいじやう 天皇てんわう の御身として、たちまち甲冑かつちう をよろはせたまふ事、先例未だ承り及ばず。その上、これ程暑きころ にて候ふ。さらずともわたらせたまひなん」 と陳じ申しければ、 「げにも」 とやおぼ されけん、院も左府も脱がせたまふ。教長・成雅なりまさ 朝臣あそん 以下いげ上北面じやうほくめん は、水干すいかん はかま腹巻はらまきちゃく す。武者むしゃ どころしゆ 以下いげ甲冑かつちう をよろひ、弓箭きゅうせん を帯す。
同十日、新院は斎院の御所から北殿へお移りになる。左大臣は御車に付き添った。
直ちにこの御所をとりでとして、兵どもを召集して、あらゆる門を警護した。
大炊御門には門が二つ、東方の門の警護は兵右馬助忠正と多田蔵人頼兼が承った。西方は堀川の川原に面しており、為義が子息を引き連れて警護していた。北面は春日の末、家弘と光弘が承る。そのほかそれぞれの脇の小門は、実力これらに次ぐ者たちが承って思い思いに警護についた。総じて院中の軍勢は千余騎参集していたが、御所は広いこととて、方々に分けてしまうと、どこに兵士がいるのか心もとないかぎりである。新院と左大臣は着背長を着していた。教長はこれを見とがめて、 「上皇でありながら甲冑をまといなさるなど例のないことです。そのうえ、このような暑い時期、そこまでなさらずとも」 と申したところ、なるほどと納得なさったのだろう、院も左大臣も着背長を脱いだ。教長や成雅以下の上北面の兵どもは、水干袴に腹巻を着していた。武者所の者どもも、皆それぞれに甲冑を着し、弓矢を構えていた。
その後、判官はんぐわん を召されて合戦の次第しだい 御尋ねありき。為義、長絹ちやうけん直垂ひたたれ に、黒糸縅くろいとをどしよろひ 着て、白髪はくはつ 糟尾かすを に過ぎ、容儀ようぎ事柄ことがら おとなしやかにて、あつぱれ大将軍たいしやうぐん やとぞ見えし。かしこ まりて申しけるは、 「以前申し上げ候ひつるごとく、為義、いま だ合戦にれん ぜざる者にて候ふ。為朝ためとも 冠者くわんじゃ を召され候ひて、おほふく めらるべし」 とて、まか り立つ。 の為朝は、さる者ありとはかねきこ し召しおかれたる上、 「父、これ程きよ し申すあひだ、やう あるべし」 とて、召し ださる。気色きしょく事柄ことがら頬魂つらたましいまこと にいかめしげなる者なり。そのたけ 七尺に余りたれば、普通の者には二・三尺ばかりあらは れたり。生まれ付きたる弓取ゆみとり にて、弓手ゆんでかひな 妻手めて より四寸長かりければ、矢束やづか を引く事十五そく 、弓は八尺五寸、長持ながもちあふこ にも過ぎたり。矢は三歳竹さんさいだけ の極めて節近ふしぢか金色かないろ なるを、洗ひみが かばしやう 弱かりなんとて、ふし ばかりをかい いこそげて、木賊とくさ をもって押しみが きて、なほもかろ くて折れもせんやとて、くろがね べて、箆中のなか 過ぎまで節を通して入れたりけり。羽はとびふくろふからすにはとり の羽を嫌はず、籐作とうはぎ に巻きたり。はず こらへずしてくだ けるあひだ、つの をもつて ぎてしゆ をさしたりけり。矢尻やじり楯破たてわりとりした にもあらざりけり。のみ のごとくなるものを先細さきぼそ に、厚さ五分、広さ一寸、長さ八寸に打たせて、まちぎはをば りきせたり。氷などのやうにみが きて、刃元はもと に油を したれば、何にてもはたとあた らば、あなたへつつととほ りたり。いかなる大磐石だいばんじやくくろがね築地ついぢ なりといふとも、たまるべしとは見えざりけり。
その後、新院は判官を呼び寄せて、合戦の計画につきご質問なさることがあった。為義の軍装は、長絹の直垂に黒糸縅の鎧を着て、ごま塩というには過ぎた白髪、身のこなし、人品ともにゆったりとして、さすが大将と見えた。為義は恐縮した様子で、
「以前申したように、為義は合戦に けておりません。ここは為朝を呼び寄せて、お命じくだされ」 と申し上げるや、座を立った。為朝にしたところでしかるべき武勇の者と以前からお耳に達したことであり、父もまたかく強く推すので、よかろうということになり呼び出された。それにしても、見るからに荒々しい風貌ふうぼう の若武者である。
背丈は七尺を超し、普通の者には二、三尺もぬきんでている。生まれつきの弓の達人、左腕は右腕より四寸長かったので、十五束の長い矢を引くことが出来、手にする弓は八尺五寸、長持ちのおうこ よりも長かった。矢は三年竹の節がごしごし詰まって金色に輝くもの、洗い磨こうものならもろくなると、節のあたりを削り落とし、木賊でみがきにみがき、そのうえ、もろくて折れたらと用心して、鉄棒を矢の箆中過ぎるあたりまで通して補強した。矢羽は梟、鵄、鶏の羽と何でもかまわず、籐作に巻いていた。
矢筈やはず はたまらず砕けてしまうので、角をついで朱をさした。矢尻は楯破や鳥の舌などの態のものではなく、鑿のようまものを先をとがらせて、厚さ五分、広さ一寸、長さ八寸に打たせて、まちぎわをにぴったりかぶせていた。まるで氷のように砥ぎ磨き、刃元に油をさしてあったので、何であれひとたび命中すると、反対側につっと突き抜けた。どのような大磐石、鉄の築地なるものがもしあろうとも、防ぐことは出来そうにもない。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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