〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/11 (金) 新 院 為 義 を 召 さ る る 事 (一)

やがて、その夜、六条ろくでう 判官はんぐわん 為義ためよし を召さる。内裏だいり よりも召されけれども、いま何方いずかた へも参らず、世間せけん のやうをうかが ひ、引きこも りてぞ候ひける。日ごろは仙洞せんとう へ参るべきよし 領掌りやうじやう 申したりけるが、今度はいかが思ひけん、参るまじきてい に御変事ぺんじ を申しければ、教長のりなが をもって宿しゅくしょ 所へつかは されて、召されければ、判官、 で向ひて、色代しきだい して申しけるは、 「為義、いやしくも弓箭きゆうせん の家に生まれ、祖父そふ 累葉るいえふあと ぎ、朝家てうか の御かため として召し仕はるといへども、まさ しく手をおろ して合戦かっせん つかまつ ること、未だ一度も候はず。先年、叔父おじ にて候ひし美濃みのの かみ 義綱よしつな朝敵てうてきまか りなりて、近江国あふみのくに 甲賀かふが やま にたてこも りて候ひしを、宣旨せんじ を承りて罷り向ひ候ひしかば、子息しそく 郎従らうじゆう 等、皆自害し候ひぬ。義綱を生捕いけど りてまゐ らせ候ひしと、奈良なら 法師ほふし山門さんもん を攻めんとて一万人の大勢にて罷り上り候ひしを、また、勅定ちょくぢやうかうふ りて、栗籠山くりこやま より追ひ返して候ひし、この二ヶ度こそ候へ。

早速その夜、新院は六条判官為義をお呼びになる。内裏からもお呼びがかかったが、どちらへも参ることなく、模様ながめとばかり引きこもっていた。この前までは仙洞御所へ伺うことを請け合っていたのに、今度ばかりはどう思ったのか、参上できかねるとご返事申し上げたところ、教長が使いで宿所まで来てのお呼びなので、判官も出向いて挨拶申し上げ、 「為義、かりにも武家に生まれてその家を継ぎ、朝家の御守りたるべくお仕えしてまいりましたが、実は一度も合戦に加わったことがありません。先年、叔父である美濃守義綱はあいにく朝敵となって、近江国甲賀山にたてこもったのを、宣旨を承り攻めることがありましたが、子息や郎従ら皆自害してしまったことです。義綱を生け捕ったことと、奈良法師が比叡山を攻めるべく一万人の大勢で押し寄せたのを、やはり宣旨を承って、粟籠山の辺まで追い返したこと、わずか二度にすぎません
そのほか、国々の狼藉らうぜき をば、郎等らうどう冠者原くわんじゃばら などをこそさしつか はしてしづ め候ひし事どもは、いくらも候へども、それは申すに及ばず。ちゃくし 子にて候ふ義朝こそ、坂東ばんどう 育ちの者にて、武勇の道にも けて候へ。それは故院こいん の御遺誡ゆいかい にて候ふとて、内裏へ参り候ひぬ。また、そのほかの子供、あまた候へども、一方の大将だいしやう を仰せ付けられるべき奴原やつばら も候はず、はる かの末子ばつし にて候う為朝ためとも 冠者くわんじゃ こそ、鎮西ちんぜい にて ちたる者にて候ふが、弓箭ゆみや を取りて恐らくは祖父にも越え、打物うちもの 取りても達者たつしゃ にて候ふ。合戦の道もよくよく心得たる奴にて候ふ。奴をまゐ らせ候はばや」 とて、しぶしぶなり。
その他、諸国の騒動を郎等や若者どもを指揮して鎮圧したことは度々ですが、それはたいしたことではありません。嫡子であります義朝は坂東育ち、、武勇にも けております。ところが、これは故鳥羽院の遺訓に従って、内裏に参上、そのほかにも子供は多くございますが、一方の大将を任せられるほどの者はおりません。ただ、ずっと下の、鎮西で生まれ育った為 朝は、弓矢を取ってその実力は祖父をこえ、刀を取らせてもたいしたものです。合戦のことも詳しく、あれを私の代わりに向けましょう」 とあまり気乗りしたふうでもなかった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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