やがて、その夜、六条
判官 為義
を召さる。内裏 よりも召されけれども、未
だ何方 へも参らず、世間
のやうを伺 ひ、引き籠
りてぞ候ひける。日ごろは仙洞
へ参るべき由 領掌
申したりけるが、今度はいかが思ひけん、参るまじき体
に御変事 を申しければ、教長
をもって彼 の宿
所へ遣 されて、召されければ、判官、出
で向ひて、色代 して申しけるは、
「為義、いやしくも弓箭
の家に生まれ、祖父 累葉
の跡 を継
ぎ、朝家 の御固
として召し仕はるといへども、正
しく手を下 して合戦
仕 ること、未だ一度も候はず。先年、叔父
にて候ひし美濃 守
義綱 、朝敵
と罷 りなりて、近江国
甲賀 山
にたて籠 りて候ひしを、宣旨
を承りて罷り向ひ候ひしかば、子息
郎従 等、皆自害し候ひぬ。義綱を生捕
りて進 らせ候ひしと、奈良
法師 、山門
を攻めんとて一万人の大勢にて罷り上り候ひしを、また、勅定
を蒙 りて、栗籠山
より追ひ返して候ひし、この二ヶ度こそ候へ。 |
早速その夜、新院は六条判官為義をお呼びになる。内裏からもお呼びがかかったが、どちらへも参ることなく、模様ながめとばかり引きこもっていた。この前までは仙洞御所へ伺うことを請け合っていたのに、今度ばかりはどう思ったのか、参上できかねるとご返事申し上げたところ、教長が使いで宿所まで来てのお呼びなので、判官も出向いて挨拶申し上げ、
「為義、かりにも武家に生まれてその家を継ぎ、朝家の御守りたるべくお仕えしてまいりましたが、実は一度も合戦に加わったことがありません。先年、叔父である美濃守義綱はあいにく朝敵となって、近江国甲賀山にたてこもったのを、宣旨を承り攻めることがありましたが、子息や郎従ら皆自害してしまったことです。義綱を生け捕ったことと、奈良法師が比叡山を攻めるべく一万人の大勢で押し寄せたのを、やはり宣旨を承って、粟籠山の辺まで追い返したこと、わずか二度にすぎません
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そのほか、国々の狼藉
をば、郎等 ・冠者原
などをこそさし遣 はして鎮
め候ひし事どもは、いくらも候へども、それは申すに及ばず。嫡
子にて候ふ義朝こそ、坂東
育ちの者にて、武勇の道にも長
けて候へ。それは故院
の御遺誡 にて候ふとて、内裏へ参り候ひぬ。また、そのほかの子供、あまた候へども、一方の大将
を仰せ付けられるべき奴原
も候はず、遥 かの末子
にて候う為朝 冠者
こそ、鎮西 にて生
ひ立 ちたる者にて候ふが、弓箭
を取りて恐らくは祖父にも越え、打物
取りても達者 にて候ふ。合戦の道もよくよく心得たる奴にて候ふ。奴を進
らせ候はばや」 とて、しぶしぶなり。 |
その他、諸国の騒動を郎等や若者どもを指揮して鎮圧したことは度々ですが、それはたいしたことではありません。嫡子であります義朝は坂東育ち、、武勇にも長
けております。ところが、これは故鳥羽院の遺訓に従って、内裏に参上、そのほかにも子供は多くございますが、一方の大将を任せられるほどの者はおりません。ただ、ずっと下の、鎮西で生まれ育った為
朝は、弓矢を取ってその実力は祖父をこえ、刀を取らせてもたいしたものです。合戦のことも詳しく、あれを私の代わりに向けましょう」 とあまり気乗りしたふうでもなかった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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