〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/11 (金) 新 院 為 義 を 召 さ る る 事 (二)

教長、 「この由をこそ披露つかまつ/rt> り候はめ。ただし、子息しそく/rt> 義朝、内裏へ参りたるによるべからず。 辺院へんゐん へ参られ候はん事、何の苦しみか候ふべき。たとひ子息をまゐ らせられ候ふとも、あい して参られてこそ交替かうかい あるべきに、 ながら御返事ぺんじ を申され、子息ばかりまゐ らせられ候はん事、いかがあるべく候ふらん」 と宣へば、判官、重ねて申しけるは、 「およそ、よろづものぐさく候ふ事は、為義、年来ねんらい 将軍の宣旨を望み申し候ひしかども、御ゆる し候はず。祖父頼義よりよし が例にまか せて、伊予国いよのくに所望しよまう 候ひしかば、 『地下ぢげ検非違使けびゐし より与州よしう 拝任はいにん の例なし』 とて、ゆる され候はず。父義家よしいえ任国にんごく にて候ひし陸奥守むつのかみ を望み申し候ひしかば、 『この国守こくしゆなんじ が家に不吉なり』 とて御ゆる し候はぬあひだ、かつう は今まで白髪をいただきてまか り過ぎ候ふ事も、あい かま へて、相構へて、この前途せんど をや げ候ふとぞん ずる故に候へば、何方いづかた につけても、もつとも奉公ほうこう をば致すべきにて候ふが、ただし、この程、よにこころ ざる夢想むそう を見たる事候ふ。その故は、重代ぢゆうだい 相伝さうでん つかまつ り候ふ薄金うすがね膝丸ひざまる月数ゆきかず日数ひかず楯無たてなし面高おもだか七竜しちりゆう八竜はちりゆう など申し候ふよろひ 、風に吹かれて四方へ散ると見候ふあひだ、心許こころもと なくおぼ え候ひて、何方いづかた へもさし出でじとこそ存じ候へ」 と申しければ、

教長が、 「このこと披露しよう。。ただし、子息義朝が内裏へ参られようとも、貴殿が院に参るに何の不都合があろうぞ。たとい自分の代わりに子息を差し出すにしても、それは同道しての交替というもの。自らは身を退いて、子息だけを寄こすというのはいかがしたものか」 とただしたところ、判官ふたたび申すには、 「どうも気乗りしないのは、この為義がかって将軍の宣旨を望んだにもかかわらずお許しのなかったことがかかわります。祖父頼義と同じく伊予国を望んだおりは、地下じげ にん の検非違使ふぜいが伊予国の国司拝任の前例はないということで許されませんでしたし、父義家のかっての任国陸奥守を望んだ際は、不吉な前例があったではないかとお許しいただけぬまま老いてしまいましたが、それでもぜひ先祖にならいそのゆかりの官職を継ぎたいばかりに、新院方、内裏方、どちらに付くにしてもお役に立つべく心がけてはいましたが、ただ、この度、何とも合点のゆかぬ夢を見たことです。というのは、重代相伝の薄金・膝丸・月数・日数・楯無・面高・七竜・八竜などと名付けた鎧が、皆風に吹きとばされて四方へ飛び散ったとの悪しき夢を見、何とも気がかりなこととて、何方へも出向くまいと決意したことです」 と申したところ、
教長、 「このでうそう じて心得候はず。左様さよう所望しょもう の候はんこそ、今度このたび 忠節ちゅうせつぬき んでられるべきにて候へ。御辺ごへん祖父そふ 、東国の俘囚ふしう 貞任さだたふ宗任むねたふ を攻め、武衡たけひら家衡いえひら を追討してこそ、昇殿しょうでんゆる され、二代将軍の宣旨を下され候ひしか。いはんや、主上・上皇のあらそ ひに、御方みかた として忠功ちゅうこう を致され候はば、たとひ卿相けいしやう の位に昇るとも、かた くやはあるべき。申し候はんや、今の所望、無下むげ容易たやす き事にあらずや。なかんづく、天下の乱れをしづ めたまはんずる人の身にて、この程の大事を余所よそ に見たまはん事、しかるべからず。そもそも、また、御辺ごへん ほど の大将軍の夢物語こそおめたる申し事なれ。披露ひろう きてはばか りあり。いかさまにも、院宣ゐんぜん の御返事ぺんじ 参り候ふぞと申さるべし」 と、様々やうやう教訓けうくんこし らへられけるあひだ、力なくして領状りやうじやう し、この上はのが るるところなしとて、三郎先生せんじやう 義憲よしのり左衛さえ 門尉もんのじょう 頼賢よりかた掃部助かもんのすけ 頼仲よりなか 、六郎為家ためいえ 、七朗為成ためなり 、八郎為朝ためとも 、九郎為仲ためなか已上いじやう 七人の子供あい して、院の御所へぞ参りける。
御所中密語ささや きあひ、上下力付きてぞ見えし。新院、御感ぎょかんあま りに、近江国あふみのくに 伊庭庄いばのしやう美濃国みののくに 青柳庄あおやぎのしやう をぞ賜はりける、その上、 「為義、じやう 北面ほくめん に候ふべき」 由、能登守のとのかみ 宗長むねなが をもつて仰せ下さる。
教長は、 「貴殿の言い分合点がゆかぬ。そのような望みがあるのならなおのこと、今こそ忠節の功をあげるべき時よ。貴殿の祖父は、東国の俘囚貞任や宗任を攻め、また、武衡や家衡を追討したからこそ昇殿を許され、二代にわたって将軍の宣旨を頂いたのではなかったか。ましてや、この度の主上と上皇の争いに加担して忠功の名をあげることがあったなら、恐れ多くも公卿の座に昇ることも難しくはあるまい。いいか、貴殿の所望、ごくごくたやすくかなえられることではないか。これまでの数々の大乱を鎮圧してきた身で、これほどの好機を放っておく手はない。また、貴殿ほどの大将軍とは思えぬ気後れした夢物語をするものよ。人に聞かせるわけにもゆくまい。ここはどうしても院の宣旨を承って参上のこと申さねばならぬところよ」 と、あれこれ教訓するものだから、為義も進退きわまってともかく承諾、もはや断るわけにもいかず、三郎先生義憲、左衛門尉頼賢、掃部助頼仲、六郎為家、七朗為成、八郎為朝、九郎為仲と以上七人の子息を引き連れて、院の御所に参上した。
御所の人々はひそひそ喜びあい、大いに威勢があがったことである。新院もことのほかお喜びで、為義に、近江国伊庭庄と美濃国青柳庄をくださった。そのうえ、「為義は上北面に詰めるがよい」 と、能登守宗長をしてお命じになった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ