教長、 「この由をこそ披露仕
り候はめ。ただし、子息
義朝、内裏へ参りたるによるべからず。御
辺院 へ参られ候はん事、何の苦しみか候ふべき。たとひ子息を進
らせられ候ふとも、相 具
して参られてこそ交替
あるべきに、居 ながら御返事
を申され、子息ばかり進
らせられ候はん事、いかがあるべく候ふらん」 と宣へば、判官、重ねて申しけるは、 「およそ、よろづものぐさく候ふ事は、為義、年来
将軍の宣旨を望み申し候ひしかども、御聴
し候はず。祖父頼義
が例に任 せて、伊予国
を所望 候ひしかば、
『地下 の検非違使
より与州 拝任
の例なし』 とて、聴 され候はず。父義家
が任国 にて候ひし陸奥守
を望み申し候ひしかば、 『この国守
、汝 が家に不吉なり』
とて御聴 し候はぬあひだ、且
は今まで白髪をいただきて罷
り過ぎ候ふ事も、相 構
へて、相構へて、この前途
をや遂 げ候ふと存
ずる故に候へば、何方
につけても、もつとも奉公
をば致すべきにて候ふが、ただし、この程、よに心
得 ざる夢想
を見たる事候ふ。その故は、重代
相伝 仕
り候ふ薄金 ・膝丸
・月数 ・日数
・楯無 ・面高
。七竜 ・八竜
など申し候ふ鎧 、風に吹かれて四方へ散ると見候ふあひだ、心許
なく思 え候ひて、何方
へもさし出でじとこそ存じ候へ」 と申しければ、 |
教長が、
「このこと披露しよう。。ただし、子息義朝が内裏へ参られようとも、貴殿が院に参るに何の不都合があろうぞ。たとい自分の代わりに子息を差し出すにしても、それは同道しての交替というもの。自らは身を退いて、子息だけを寄こすというのはいかがしたものか」
とただしたところ、判官ふたたび申すには、 「どうも気乗りしないのは、この為義がかって将軍の宣旨を望んだにもかかわらずお許しのなかったことがかかわります。祖父頼義と同じく伊予国を望んだおりは、地下
人 の検非違使ふぜいが伊予国の国司拝任の前例はないということで許されませんでしたし、父義家のかっての任国陸奥守を望んだ際は、不吉な前例があったではないかとお許しいただけぬまま老いてしまいましたが、それでもぜひ先祖にならいそのゆかりの官職を継ぎたいばかりに、新院方、内裏方、どちらに付くにしてもお役に立つべく心がけてはいましたが、ただ、この度、何とも合点のゆかぬ夢を見たことです。というのは、重代相伝の薄金・膝丸・月数・日数・楯無・面高・七竜・八竜などと名付けた鎧が、皆風に吹きとばされて四方へ飛び散ったとの悪しき夢を見、何とも気がかりなこととて、何方へも出向くまいと決意したことです」
と申したところ、 |
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教長、 「この条
、惣 じて心得候はず。左様
に所望 の候はんこそ、今度
忠節 を抽
んでられるべきにて候へ。御辺
の祖父 、東国の俘囚
貞任 ・宗任
を攻め、武衡 ・家衡
を追討してこそ、昇殿
を聴 され、二代将軍の宣旨を下され候ひしか。いはんや、主上・上皇の諍
ひに、御方 として忠功
を致され候はば、たとひ卿相
の位に昇るとも、難 くやはあるべき。申し候はんや、今の所望、無下
に容易 き事にあらずや。なかんづく、天下の乱れを鎮
めたまはんずる人の身にて、この程の大事を余所
に見たまはん事、しかるべからず。そもそも、また、御辺
程 の大将軍の夢物語こそおめたる申し事なれ。披露
に就 きて憚
りあり。いかさまにも、院宣
の御返事 参り候ふぞと申さるべし」
と、様々 に教訓
を誘 らへられけるあひだ、力なくして領状
し、この上は遁 るるところなしとて、三郎先生
義憲 、左衛
門尉 頼賢
、掃部助 頼仲
、六郎為家 、七朗為成
、八郎為朝 、九郎為仲
、已上 七人の子供相
具 して、院の御所へぞ参りける。 御所中密語
きあひ、上下力付きてぞ見えし。新院、御感
の余 りに、近江国
伊庭庄 、美濃国
青柳庄 をぞ賜はりける、その上、
「為義、上 北面
に候ふべき」 由、能登守
宗長 をもつて仰せ下さる。
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教長は、
「貴殿の言い分合点がゆかぬ。そのような望みがあるのならなおのこと、今こそ忠節の功をあげるべき時よ。貴殿の祖父は、東国の俘囚貞任や宗任を攻め、また、武衡や家衡を追討したからこそ昇殿を許され、二代にわたって将軍の宣旨を頂いたのではなかったか。ましてや、この度の主上と上皇の争いに加担して忠功の名をあげることがあったなら、恐れ多くも公卿の座に昇ることも難しくはあるまい。いいか、貴殿の所望、ごくごくたやすくかなえられることではないか。これまでの数々の大乱を鎮圧してきた身で、これほどの好機を放っておく手はない。また、貴殿ほどの大将軍とは思えぬ気後れした夢物語をするものよ。人に聞かせるわけにもゆくまい。ここはどうしても院の宣旨を承って参上のこと申さねばならぬところよ」
と、あれこれ教訓するものだから、為義も進退きわまってともかく承諾、もはや断るわけにもいかず、三郎先生義憲、左衛門尉頼賢、掃部助頼仲、六郎為家、七朗為成、八郎為朝、九郎為仲と以上七人の子息を引き連れて、院の御所に参上した。 御所の人々はひそひそ喜びあい、大いに威勢があがったことである。新院もことのほかお喜びで、為義に、近江国伊庭庄と美濃国青柳庄をくださった。そのうえ、「為義は上北面に詰めるがよい」
と、能登守宗長をしてお命じになった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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