〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/07 (月) 新院御謀叛思し召し立たるる事 (四)

左府思し召されけるは、 「当時の世界を案ずるに、内裏の御代みよ たらんには、関白殿どの のさておはするをさいお き、摂政せつしやう 摂?せつらく せん事はあるべからず。すべからく、新院の御治世になして、関白殿を めたてまつり、まつりごと がままに り行ふ」 と思し召されるぞあさましき。このでう 、内々新院きこ し召されて、すこぶ厭面ゑつぼ に入らせたまひて、ある時、仰せ合はせらるるむねねんごろ なり。 「それ、天智てんぢ 天皇てんわう舒明じょめい太子たいし なり。孝徳かうとく 天皇、御子みこ たちあまたましまししかども、人臣つらな りたまふ。仁明にんみやう嵯峨さが皇胤くわういん なり。淳和じゅんわ の孫たちを越えて、宝祚ほうそ を継ぎたまふ。 徳行とくぎやう なしといへども、先帝せんてい の太子と まれて、四海しかい 朝宗てうそう の君となり、十善じふぜん余薫よくん ちずして、万乗ばんじょう尊位そんゐ に備はりき。しかるを、一旦いつたん の寵愛によって累代るいたい正統しやうとうさしお かれ不慮ふりょ蠧害とかいさへぎ られ、父子ともに沈淪ちんりん の愁へをいだ けり。先院せんゐん存日ぞんじつ の間は、愁鬱しううつ 深しといへども、うつた ふる所なくして、むな しく両年りやうねん の春秋を送りぬ。今においては、こころざし を忍ぶに堪へず。斉明さいめい称徳しょうとく 二代のあと を追ひて、二度ふたたび 帝位に備はるか、しからずは、また、位を重仁しげひと 親王しんわう に授け、政務せいむ に臨むか。この時に至りて、世を争ふ事、あに 神慮しんりよ にも背き、人望にも背かんや。この条々でうでう いかが」
と仰せありければ、左大臣殿、もとよりの御本意なりければ、 「天の与ふるを取らざれば、還へりてそのとが 、時の至るを行はざれば、還りてそのわざはひ といへり。旧院きういん 崩御なりぬるをもって、時の至る事を知る。この時いかなる御事をも思し召し立たせたまはずんば、何時をか しましますべきぞや。もつともしかるべき」 由、合点がつてん 申されける上は、子細に及ばず、はや 思し召し定めけり。

左大臣は思案されて、 「今の世をよくよく考えると、天皇に実権があるのであれば、親しく仕えている関白殿をさしおいて、摂政せつしやう 摂?せつらくに就くことはかなうまい。ここは新院に実権をお移しして、関白殿の権勢をそぎ、執政のだんは我が思いのままに」 など思いつかれたのは不遜のきわまりない。このことが内々新院に伝わるや、わが意を得たとばかりに上機嫌、ある時、左大臣を招いて親密に語り合うことがあった。 「天智天皇は舒明天皇の太子、孝徳天皇は皇子多くいらしたにもかかわらず皇統から離れた。仁明天皇は嵯峨天皇の皇胤、淳和天皇の子孫たちをさしおいて即位された。我が身に徳行備わっているかおぼつかないが、先帝の皇子として生まれ即位、皇位を継いだことである。それが、いっときの寵愛によるご判断が優先されて、我ら親子は皇統から外されて悲憤やるせない。鳥羽院ご存命の間はこの鬱憤やるせないこtではあるが訴え出る所もないままに、むなしく二年が経った。今となってはもう堪忍もしかねるところ、斉明・称徳帝のように再度即くか、あるいは重仁新王を皇位に即け政治の実権を握ろうか。この時に当っての政争、神慮や人望に背くことにはなるまい。この両案をどうだろうか」 との新院の仰せを受け、左大臣殿は、もともと自分も考えていたこととて、 「天の授けを受けないと天罰を受け、時のなり行きのまま行動を起こさないとかえって災いを受けると言う。鳥羽院崩御とはすなわちよき時節の到来ということ、この時決意されずして、いつ決起されようというのか。よきご決意よ」 と賛意申し上げた以上、もう障りはない。早速ご決意を固めた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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