自爾
已来 、内裏仙洞に候
ずる源平両家の兵 ども、或いは親父
の命を背き、或いは兄弟の好
みを忘れ、思々
心々 に引き別る。父子
、甥 、親類、郎従
等に至るまで、皆 もつて各別
す。 日本国大略
二つに別れたり。洛中
の貴賎 上下、申し合ひけるは、
「世は今はこうにこそあれ。只今
失 せ終
てなんずるにこそ。新院と申すは御兄、内裏と申すは御弟なり。関白殿は御兄、左大臣殿はまた御弟なり。内裏の大将軍
には下野守 義朝
、安芸守 清盛
、院方の大将軍には義朝が父六条判官
為義 、清盛が伯父
平 右馬助
忠正 。上
といひ下 といひ、何れの勝劣
あるべしとも思 えず。ただし、合戦
の慣 ひ、必ず一方は勝ち、一方は負く。予
て勝敗知りがたし。これは、ただ、果報
の浅深 により、運命の厚薄
に応 ふべし」 とぞ申し合へる。
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それ以来、内裏や仙洞御所にたむろする源平両家の兵ども、ある者は親の命令に背き、ある者は兄弟の対立とそれぞれに陣営を異にする。父子、甥、親類郎従などにいたるまでおのおのの対立、大げさに言えば日本国は二分されてしまった。京中のありとあらゆる人びとは、
「もはや世の中はかくなりはてた。今に失われてしまおうものを。新院は兄君で天皇は弟君。かたや関白殿は御兄で左大臣殿は御弟といった具合である。内裏方の大将軍は下野守義朝と安芸守清盛、対する院方大将軍は義朝の父六条判官為義と清盛の伯父平右馬助忠正。この対立の勝劣の行末は判定できようはずがない。ただし、一方が勝ち一方が負けるのは合戦の常といって、争いの帰趨
の判断などできそうにない。ただもう果報や天運の差さ」 と言い合うばかりであった。 |
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新院の当時の御所
は鳥羽 田中
殿 なり。故院この御所にて崩御なりしかば、御中陰
の間、かくて渡らせたまひけるが、御謀叛の御企
ての後は、便宜 悪
しかりなんとて、京へ出でさせたまふべき由思
し召 す。かかりければ、何と聞き分けたる事はなけれども、道々
関々 しづかならず。京中の家々には、門戸
を閉ぢ、資財 雑具
、東西南北へ運びかくし、上下騒ぎ迷ふ事斜
ならず。 「蒼明叡心
の御企て、凡下 是非
すべきにあらざれども、故院崩御の後、僅
かに七ヶ日の間なり。こはいかなる事のあらむずるや、まこにもつておぼゆかなし。紫宵
の上には星の位穏 やかに、蒼海
の内には浪 の音和
らかなりつる御代の、たちまちに乱れぬるこそ悲しけれ」 と万人
歎 き合へり。 |
新院のこの時の御所は鳥羽田中殿、鳥羽院はここで崩御なさったので、せめて御中陰の間は留まりなさることになったが、ご謀叛を企てたからには地の利が悪かろうということで、京中への進出を決意なさった。 はっきりした情報は不明のまま、街道筋は騒然として、京の町中の家々は門戸を閉ざし、資財雑具をあちこち運び出して、ありとあらゆる人々の大騒ぎ、それはもう大変なものだった。
「聡明をもって知られた新院の御企てとあれば、凡下の者の論評は控えるべきであろうが、鳥羽院が崩御してわずかに七ヶ日しか経っていない。いったいどのようなことが出来
することやら、気がかりこのうえない。朝廷も国々もよく治まり平穏だったはずが、これほど急激な大混乱とは情けないにも程がある」
とは人々の嘆きの言葉であった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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