〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/06 (日) 新院御謀叛思し召し立たるる事 (三)

また、この左大臣殿も、天下てんか を治めたまはんに、不足の臣とも見えたまはず。和漢の礼儀を心得て、自他しだ の記録にくら からず、諸道しょだう浅深せんしんさぐ り、諸事しょじ浮沈ふちんはか り、万機ばんき に補佐として親疎しんそ差別しやべつ なかりき。摂?せつろく の器量の臣たる事、古今を恥ぢたまはず。しかるあひだ、関白殿の御手美しくあそばし、和漢に長じたまへるをそね み申さるる御詞とおぼ えて、 「詩歌は閑中かんちゅう翫物もてあそびもの なり。更に朝儀の要事えうし にあらず。手跡しゅせき はまた一旦いつたんきょう なり。賢臣けんしん 必ずしもこれをさき とせず」 とて、我が御身はもは五経ごきやう を学び、じん れい しん を正しく、節会せちゑ官奏くわんそう除目ぢもく などにたまたま御誤りある時は、すなはち御怠状たいじやう を書きて、職事しきじ弁官べんくわんたま ふ。恐れをなして賜はらざりければ、 「いちかみ の怠状を地下ぢげ に伝へん事、家の面目にはあらずや。ただ賜はり候へ。殊更ことさら ぞん ずる処なり」 と、 ひておほ せられければ、かしこま つて賜はりけり。また、あや しの舎人とねり牛飼うしかひ なれども、勘気かんきかうぶ る時は、正理しやうり を正しく申せば、細々さいさいきこ され、罪無ければ御後悔あり。まこと理非りひ 明察めいさつ にして、善悪ぜんあく 無二むに なり。諸事しょじ 錐徹すいてつ にましましければ、悪左あくさ大臣おとど とぞ申しける。かやうに兄弟の御中向背きやうはい してましまししかば、御奉公ほうこう も各別なり。関白殿は、もとよりの御事なれば、内裏に御祗候しこう あり。左大臣は、引き違へて、仙洞せんとう に御祗候ありけり。

一方、この左大臣も、天下の大権を握るにふさわしいお方とお見受けされる。和漢の礼儀に通じて、あらゆる記録先例に明るい。諸道のたしなみは深く、事に当っては冷静な判断を示し、執政に際しても公平無私であった。摂関としての器量を備えてこれほどのお方はまたとあろうか。ところで、関白殿のお手跡がみごとで、また和漢の詩作にすぐれていらしたことをねた んでのお言葉であろう、左大臣は、 「詩歌は暇をもてあましての余技、執政にあって何の役にも立たない。美しい筆跡とていったんの遊びごと、賢臣にとって必須のことではあるまい」 と肝に銘じ、ご自身はもっぱら五経を学んで仁儀礼智信を実践、節会・官奏・除目の際にたまたま誤りを犯したときはただちに び状を担当の職事や弁官ににくだされた。彼らにとっては恐れ多いことで躊躇ちゅうちょ するや、 「左大臣の詫び証文を代々持ち伝えることは家の面目、遠慮せずと受け取れ。思いこめての証文よ」 と強く押し付けるので、たまらずいただくことになる。また、身分の低い舎人、牛飼ふぜいの者でも、お叱りを受けた時きちんと釈明すると、細かいことまでお聞き届けになり、確かに罪なきことがわかると大いに反省される。まことに理非明瞭、またとないお方である。あらゆることに深く通じ、人は恐れて悪左の大臣と異名をたてまつった。このようにご兄弟の仲違いははなはだしく、宮仕えもそれぞれに異なっている。関白殿はこれまでのいきさつで内裏にお仕えし、かたや左大臣殿は仙洞御所にお仕えするという具合であった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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