君と君との御中かくのごとし。臣と臣との御中また不快。その故
は、当関白 忠通
公と申すは、後には法性寺
の大殿 とも申しき。富家
の禅定 殿下
の御嫡男 なり。また、宇治
の左 大臣
頼長 公と申すは、これも禅定殿下の二男、関白殿の御弟なり。しかるに、御兄弟の上、父子
の御契約ありて、ことさら礼儀深くましまししが、御中たちまちに違約したまひし故は、この左大臣は、公達
の御中、殊 に愛子
にてましましけるあひだ、去んぬる久安
六年九月二十六日、関白殿を閣
き奉り、氏 の長者
に補 し、仁平
元年正月十日万機 内覧
の宣旨 を蒙
りて、天下 の大小事を執
り行ひたまひし故なり。大抵
も、摂政 ・関白のほかに、執柄
の臣相 並
びたまふ事、稀代 の例とぞ申し合へる。かくのごときあひだ、関白殿は、ただ摂?
の御名ばかりにて、天下
の御政をば外 の人のごとくにて御覧ぜられける。これにより、関白殿、憤
り申させたまひけるは、 「曩祖
忠仁 公より以来
、内覧・氏長者を摂政摂?
に付けらるるは、既に旧例なり。しかるに、忠通、当
執政 の時、両職共に左府
に奪はれ、ただ面目を時に失ふのみならず、謗
りを後代 に残さむ事、口惜
しき次第にあらずや。しかりといへども、左府の執権によって、政
淳朴 に帰るべくは、忠通が関白辞表
を納められて、関白を左府に付けらるるか、しからずば、また、内覧・長者を関白に付けらるるか、この両条
、宜 しく天裁
あるべきに」 と、しきりに訴へ申させたまひければ、主上も、 「この条
、もっとも理 なり」
と思し召されけれども、これも禅定殿下の御はからひなりければ、力及ばせたまはず |