〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/06 (日) 新院御謀叛思し召し立たるる事 (二)

君と君との御中かくのごとし。臣と臣との御中また不快。そのゆゑ は、当関白くわんぱく 忠通ただみち 公と申すは、後には法性寺ほつしやうじ大殿おほとの とも申しき。富家ふけ禅定ぜんぢやう 殿下でんか の御嫡男ちゃくなん なり。また、宇治うじ 大臣だいじん 頼長よりなが 公と申すは、これも禅定殿下の二男、関白殿の御弟なり。しかるに、御兄弟の上、父子ふし の御契約ありて、ことさら礼儀深くましまししが、御中たちまちに違約したまひし故は、この左大臣は、公達きんだち の御中、こと愛子あいし にてましましけるあひだ、去んぬる久安きうあん 六年九月二十六日、関白殿をさしお き奉り、うじ長者ちやうじや し、仁平にんぺい 元年正月十日万機ばんき 内覧ないらん宣旨せんじかうぶ りて、天下てんか の大小事を り行ひたまひし故なり。大抵たいてい も、摂政せつしやう ・関白のほかに、執柄しつぺい の臣あひ なら びたまふ事、稀代きたい の例とぞ申し合へる。かくのごときあひだ、関白殿は、ただ摂?せつろく の御名ばかりにて、天下てんか の御政をばそと の人のごとくにて御覧ぜられける。これにより、関白殿、いきどほ り申させたまひけるは、 「曩祖なうそ 忠仁ちゆうじん 公より以来このかた 、内覧・氏長者を摂政摂?せつろく に付けらるるは、既に旧例なり。しかるに、忠通、たう 執政しつせい の時、両職共に左府さふ に奪はれ、ただ面目を時に失ふのみならず、そし りを後代こうたい に残さむ事、口惜くちお しき次第にあらずや。しかりといへども、左府の執権によって、まつりごと 淳朴じゅんぼく に帰るべくは、忠通が関白辞表じへう を納められて、関白を左府に付けらるるか、しからずば、また、内覧・長者を関白に付けらるるか、この両条りやうでうよろ しく天裁てんさい あるべきに」 と、しきりに訴へ申させたまひければ、主上も、 「このでう 、もっともことわり なり」 と思し召されけれども、これも禅定殿下の御はからひなりければ、力及ばせたまはず

君と君との確執はこのようなもの、一方臣下の仲にも快からぬものがあった。内実を明かすと、今の関白忠通公は後年法性寺の大殿と申したお方で、富家の禅定殿下の嫡男である。また、宇治の左大臣頼長公はこれも禅定殿下の次男、すなわち関白殿の弟である。かくご兄弟の仲たるのうえ、父子の契りも結んでいらしたので、ことのほかその間柄もうるわしいものであったのに、突然の御仲違なかたが いというわけは、この左大臣はご子息のなかでも特に父に愛され、ために、去る久安六年九月二十六日、兄関白殿をさしおいて氏の長者に任じられ、仁平元年正月十日、内覧の宣旨をいただいて、政治全般をつかさどることになったがゆえである。摂政関白のほかに、その上を行く執柄の臣に任じられるなど世にもまれ なことと人々は不審がった。かくして、関白殿はただ摂政とは名ばかりで、政治権力の枠外におかれてしまった。関白殿は憤りのあまり、
「祖先忠仁公以来、内覧、氏の長者は折衝が兼ね任じられるのが旧例である。ところが、忠通が執政に当っている時、この両職ともに左大臣に奪われ、面目ない次第、のちのち私が笑われ者になったのは悔しい。とは言っても、左大臣の執政で政治がうまく治まるのであれば、忠通の辞表を受けて左大臣を関白に任じるか、そうでないならば、内覧、氏の長者をこの忠通に付けていただくか、すっきり決着つけていただきたい」 としきりに訴えたことである。天皇も、 「忠通の申し分は理にかなう」 とお思いになったが、すべて禅定殿下のご判断とあれば、いかんともなさりがたいことである。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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