〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/05 (土) 法 皇 崩 御 の 事 (二)

その後、法皇、日にしたが ひて弱らせたまへば、法験ほふげん 利生りしやう をかくし、医道いだう 良薬りやうやく を失ふに付けても、業病ごふびやう この時を限れりとぞ思し召す。かこ つ方とては、ただ、かひ なき御涙ばかりなり。
かくて、法皇、同七月二日に、遂に隠れさせたまひぬ。その後は、鳥羽とば いん とぞ申しける。
御歳五十四、いまだ六十にだにも満たせたまはず。人間はこれ生死しやうじ 無常むじやう芭蕉ばせう 泡沫はうまつ の境なれば、始め驚くべきにはあらざれども、一天暮れて月日の光を失ひ、万人ばんにん うれ へに沈み、父母ぶも にあへるがごとし。釈迦しゃか 如来にょらい は、生者しやうじや 必滅ひつめつ道理ことわり を示さんと、沙羅しゃら 双樹さうじゅもと にして、仮に滅度めつど を唱へたまひしかども、人天にんでん 大会だいゑ 、五十二るい非情ひじやう の草木、山野さんやけだもの江河かうがうろくづ に至るまで、物を思へる姿なり。沙羅しゃら りん に風止んで、その色たしまちにすずしく、跋提河ばつだいが の水むせ んで、またその流れも濁れり。万木千草ばんぼくせんさうみな もって悲涙ひるいそう を示しき。かの二月きさらぎ の中の五日の御入滅にふめつ には、五十に類、悲しみの色をあらは し、この文月ふづき の始めの二日ふつか崩御ほうぎょ には、九重ここのへ の上下、心なきたぐひ までも、なほ愁ひの色をや含むらん。まして、近く召し仕ひ、なれなれしく思し召されし人々、いかばかりの事を思はれけん。

その後、法皇は日に日に衰弱なさるばかりで、つのる病勢には霊験もかなわず、医道良薬をもってしてもいかんともしがたく、業病ごうびょう とあらばいよいよ最後とご覚悟はできている。恨んでもせん なきことと、ただ涙にくれるばかりであった。
とかくするうち、法皇は、同七月二日、ついにお亡くなりになった。その後は、鳥羽院と申し上げた。
享年五十四歳、一期六十歳はかなわないことであった。人として生まれては、皆、生死無常、芭蕉泡沫のあやうい境にただようこととて、法皇の死といえども、今さら驚くべきことではあるまいが、いざその時を迎えると天は暮れて日月は光を失い、人は皆悲痛な思いで、父母の喪にあったような感がする。釈迦が生者必滅のことわり をご自身示すべく、沙羅しゃら 双樹そうじゅ のもとで死を迎えなさったが、五十二類、非情の草木、山野の獣、江河の魚にいたるまで、悲しみにうちひしがれていた。林を吹き渡る風も止んで沙羅の花は色を変じ、跋提河ばつだうが の水も泣きむせんで、ために流れも濁ったと伝えられる。万木千草、すべて悲しみの表情をあらわにした。
あの二月十五日の釈迦の死にあたっては五十二類こぞって悲しみの気持を示し、この七月二日の鳥羽院の崩御には、ありとあらゆる都の人々もまた悲しみにふけった。ましておそば近くに仕え、院もまた情けをおかけになった方々の悲しみのほどは察してあまりあるというものだ。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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