その後、法皇、日に随
ひて弱らせたまへば、法験
利生 をかくし、医道
良薬 を失ふに付けても、業病
この時を限れりとぞ思し召す。?
つ方とては、ただ、効 なき御涙ばかりなり。 かくて、法皇、同七月二日に、遂に隠れさせたまひぬ。その後は、鳥羽
院 とぞ申しける。 御歳五十四、いまだ六十にだにも満たせたまはず。人間はこれ生死
無常 、芭蕉
泡沫 の境なれば、始め驚くべきにはあらざれども、一天暮れて月日の光を失ひ、万人
愁 へに沈み、父母
の喪 にあへるがごとし。釈迦
如来 は、生者
必滅 の道理
を示さんと、沙羅 双樹
の下 にして、仮に滅度
を唱へたまひしかども、人天
大会 、五十二類
、非情 の草木、山野
の獣 、江河
の鱗 に至るまで、物を思へる姿なり。沙羅
林 に風止んで、その色たしまちにすずしく、跋提河
の水咽 んで、またその流れも濁れり。万木千草
、皆 もって悲涙
の相 を示しき。かの二月
の中の五日の御入滅
には、五十に類、悲しみの色を顕
し、この文月 の始めの二日
の崩御 には、九重
の上下、心なき類 までも、なほ愁ひの色をや含むらん。まして、近く召し仕ひ、なれなれしく思し召されし人々、いかばかりの事を思はれけん。
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