〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/03 (木) 後 白 河 院 御 即 位 の 事 (二)

かくて歳月としつき る程に、久寿きゅうじゅ 二年の春のころ より、主上しゅしやう不予ふよ に入らせたまふ。これより、内外ないげ の御祈りさまざまなりといへども、その御しるし も見えさせたまはず。春 ぎ、夏 けて、秋もやうや く更けゆけば、いよいよところ きさまに見えさせましますあひだ、禁中きんちゅう にも仙洞せんとう にも、何事の御沙汰さた にも及ばず。八月十五日にもなりぬ。今日は駒引こまひき とて、 まの れう の使ひ、国々の御牧みまき の駒をたてまつ る。官使くわんし逢坂あふさか の関に行き向ひて、これを受け取る。その儀式、年々としどし かは るこ事はなけれども、今年は御悩ごなう によってとど めらる。男山おとこやま放生会ほうじゃうゑ は、恒例こうれい 厳重げんじゅう神事しんじ なればとて、形のごと く遂げ行る。内裏だいり には南殿なでん御簾ぎょれん も上げられず、詩人歌仙も参られず。よろず物すさま じきやうに見えさせたまひしが、しかるべき御事にや、今宵こよひ しも、御乱れ心地ごこち 少したゆませましましければ、深更しんかう に及びて、御簾みす 二、三間ばかり上げられて、雲居くもい の月を叡覧えいらん ありけるに、名を得たる碧浪へきらう 金波きんぱ 三五さんごゆふべ といひながら、折りしもことのぼ りければ、かの秦甸しんでん一千いつせん 余里より漢家かんか の三十六きゆうおぼ らせたまひ、御覧じ つべしとも思し召さざりければ、わざ とにはあらで、さぶら ひあひたまへる卿相けいしやう 雲客うんかく の中に、堪能かんのう の人々を召し選ばれて、臨時に御会ごくわい あり。文詩ぶんし を献じ、和歌を奏す。奏するところの詩歌、いづれもいづれも祝言しうげん にあらざる事なし。されども、その中に下されける一首の御製ぎょせい こそ、いまはの道かね て思し召し知らせたまひけるにやと、哀れにかたじけなく思えしか。

かくして歳月がたつうちに、久寿二年の春ごろから、近衛天皇は重い病気になられた。仏教をはいめとしてあらゆる御祈祷も試みられたが、いっこうにご回復のきざしは見えない。春が過ぎて夏も行き、秋もだんだん深まるにつれ、ますますぎ不調とお見受けされるものの、皇居にても院の御所のても何の御加療もできぬままであった。
八月十五日を迎え、今日は駒曳きの儀式とて、左馬寮の役人が国々の牧場から馬を献上する日である。寮の役人たちが逢坂の関に出向き、諸国の牧場から選りすぐりの馬を受け取るのが定めである。その儀式、毎年変わることなく執り行われるはずが、今年は天皇のご病気により中止となった。
ただし、男山八幡宮での放生会は、例年通りとどこうりなく執り行われた。天皇が病に臥す内裏では南殿の御簾も巻き上げられることなく、詩人や歌人が参内することもなかった。まことにさむざむとした御所のていであったが、風情よろしきの日のせいか、今宵は天皇のご病状も少しやわらいだので、深夜になって御簾を二、三間引き上げ、御所を照らす月をご覧なさったところ、折りしも八月十五夜の名月がこうこうと冴えわたり、漢詩の世界そのまま、遥か隔たった中国の宮殿も思いおこされるというものの、こんままで済ますわけにもゆかぬまま、ちょうど居あわせた公卿殿上人のなかから漢詩や和歌の名手だけを招いて、予期せぬ月見の宴を催すこととなった。詩を作る者、歌を詠ずる者、奏上するところの詩歌はすべて天子の徳を称える秀作であった。しかし、なかでも天皇御作の和歌は、ご自身天寿の間もなく果てることを覚悟なさっているのかと思われるほど、まことに哀切きわまりない詩情をただよわせていた。
虫のよわ るのみかは ぐる秋を  しむ我が身ぞ  ず消えぬべき
人々、これをはい し奉り、かつ は感じ申し、且はいまいましくおぼ ゆる程に、明くる十六日、 なう おも らせたまふによって、にはか に御位をすべらせましますと聞えしが、その夜の戌剋いぬのこく に、つひ に隠れさせたまひけり。
桃顔たうがん いまだ春のかすみ に衰へさせましまさざれども、蘭質らんしつ たちまち秋の霧におか されて、あしたつゆ と消えさせたまひぬ。御歳わづ かに十七歳、思ひあへざりし御事なり。人間は老少らうせう 不定ふぢやう の定まれる習ひと、かね てこれをば知ろし せども、禁中皆 れにけり。天下ことごとく茫然ぼうぜん たり。中印ちゅういん 和漢わかん を尋ぬるに、親にさき つ子、子におく るる親、あげて数ふべからず。されども、この御なげ きほどの御事、昔も今も承り及ばず。
虫の音だけが弱りゆくにあらず。行く秋を惜しむわが身こそ真っ先に消え果るさだめなることを知る
参会する人々はこの和歌を拝見するにつけ、感嘆の声をあげたものの、といって不吉な思いもよぎるうち、翌十六日、天皇は重体に陥られたために、あわただしいご退位の由、その夜の戌の刻、ついに崩御された。
病におかされた春のころ、天皇のお顔つきはさほどやつれもお見せにならなかったが、さすが秋になるにつれ、ご闘病かなわずお亡くなりになった。御歳わずか十七歳、思いもよらぬ早いお別れである。天命の尽きること、老少不定が定めと覚悟していることとはいえ、宮中は深く愁えに沈んだ。天下の人々もまた我を忘れた態である。中インドや日本、中国、いずれの国にあっても、親に先立つ子、子に先立たれた親の例は数限りない。しかし、この度の鳥羽上皇のお嘆きほどいたましい例は、昔も今も承ったことはなかった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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