〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/05/04 (金) 後 白 河 院 御 即 位 の 事 (三)

そもそも、新院しんいん 天下てんか 十九年が間、一天いつてん 雲晴れてみどり の空に雨をそそき、四海しかい なみ 静かにして、鳴鳳めいほう の声さだかなり。されば、たれ の人かこの御位をかたぶ くべきなれども、近衛院は第八の御弟、当腹とうぶく の宮、愛子あいし の道を けさせましますによって、是非なく位を押し取らせたまふ。せめて二十年の御宝算ほうさん をだにも保たせたまはず、わず かに十七年の春秋を送りかねて、かやうに隠れさせたまふぞあさましき。神武天皇は 天下てんか 七十六年、御寿命じゅみょう 一百二十七歳なり。その後の帝王も、或いは百十四年、或いは一百二十余年などなり。昔は国王の御寿命もかうこそ びさせたまひけるに、末代まつだい こそ心 けれ。仏も人も寿命の長短不同なるにや、釈迦しゃか 如来にょうらい よりは遥かのさき照日光せうにつくわう 如来にょらい は御寿命三十年、じゅう じゅう 如来にょらいわず かに一日一夜なり。月面ぐわつめん 如来にょらい はただ一日、あした でてゆふ べに入りたまひしかば、烏鵲うじゃく日輪にちりん 早く隠れて、生死しやうし長夜ぢやうや いよいよ深かりき。まことに本覚ほんかく 常住じやうぢゆう の如来すら、分段ぶんだん の御寿命をばかうこそ御心にまか せぬ御事なれ。いはんや、我が太子たいし 近衛院は、人皇にんわう 七十六代に当りたまへるみかど 末世まつせのぞ み、位は如来に劣りたまへる有待うだい の御身を持ちながら、無常むじやう の嵐をいかでかのが れさせたまふべきとおぼ し慰ませたまはぬぞ御罪深くおぼえける。

いったい、新院の御治政十九年の間、国は平和に治まり、たとえて言えば、雲は晴れて時に雨降りそそぎ、四海の波は静かにして鳳凰の鳴き声定かといったさまである。だからこの皇位の奪取などだれも出来かねることであったが、近衛院は第八の御弟、一院ご寵愛の后の御子との威勢により、強引に即位されたのである。せめて成年二十歳もお迎えになられず、わずかに十七年を一期とするご生涯、かくもご早世といははかないことであった。神武天皇のご治世は七十六年、ご寿命は百二十歳。その後の天皇も百十四歳、あるいは百二十余年など、昔の国王のご寿命はかくも長命であられたが、末代ともなると、無念、こうはいかない。仏も人間も寿命の長短はそれぞれによってまちまち、釈迦如来よりはるか以前、照日光如来はご寿命三十年、これに対して、住無住如来のご寿命はわずか一昼夜であった。月面如来のご寿命はただの一日、朝に出て夕に入りなさるので、陽は没して長い夜の闇、迷い深い人生というものである。
まことに仏といえども、寿命には長短の刻みがあるのであり、天寿を心のままにあやつるなど論外というもの。まして、我が国の王子近衛院は人皇七十六代に当りなさる天皇、末代に際し、天皇とはいえども位は如来に劣る凡夫とあっては、どうして死を遁れることができようかなどと鳥羽院にして観念できかねるあたり、恐れ多くも罪深いことではある。
今度の御位の事、新院させる由緒ゆいしょ もなくおろ させたまひぬれば、 「御 こそ今はかへ かせましまさずとも、いちみや 重仁しげひと 新王はよものが れさせたまはじ」 と、万人ばんじん 思ひあへりしに、 白河しらかわ の法皇、その時四宮しのみや とてうち められてましまししを、女院にょういん の御はからひにて、御位に け奉らせたまふ。この四宮と申すは、故待賢門院けんたいもんいん の御腹なれば、新院と同胞一腹どうはういつぷく の御兄弟なり。されば、女院の御為にはいづれも継子けいし にてましませども、 「新院・重仁新王の御呪詛しゅそ 深きゆゑに、近衛院隠れさせたまひぬ」 とささやき申す方もありければ、美福門院、その御恨み深くして、法皇にとかく り申させたまひて、四宮を御位にまゐ らさせたまふぞ心憂き。
この度の新院のご退位は、さしたる失政もないままに取り計らわれた不本意な事件であったので、ご自身の復位はかなわずとも、ご長男重仁親王のご即位は当然のことと思われたが、当時四の宮として逼塞しておられた後白河法皇が美福門院のご意向で即位なさった。この四の宮と申し上げた御方は、母が待賢門院で、新院とは母を同じくするご兄弟である。従って、女院にとってはいずれも血のつながらない御子ではあるが、新院と重仁新王の執念深い呪いのために近衛院が亡くなられたなど噂する向きもあったので、美福門院の憤りただならず、鳥羽法皇に強く迫って、四の宮を天皇の位に即けなさったなど、思えば無法なことである。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ