〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
保 元 物 語 (上)

2012/04/30 (月) 後 白 河 院 御 即 位 の 事 (一)

近比ちかごろ 帝王ていわう ましましき。御名おんな をば鳥羽とばの 禅定ぜんぢゃう 法皇ほふわう とぞ申す。天照てんせう 太神だいじん 四十六御末おんすえ神武じんむ 天皇てんわう より七十四代にあたり給へる御門みかど なり。堀河天皇ほりかわてんう 第一の皇子、御母おんはは贈皇ぞうくわう 太后宮だいごうぐう閑院かんいんの 大納言だいなごん 実季さねすえ きやう御女おんむすめ なり。康和かうわ 五年正月十六日に御誕生、同年八月十七日皇太子にたたせ給ふ。嘉承かしょう 二年七月十九日堀河院ほりかはのゐん かくれさせ給ふ。同じく十九日皇子五歳にして御位みくらい にそなはらせ給ふ。践祚せんそ 御在位十六か年のあひだ海内かいだい 静かにして天下てんか おだ やかなり。風雨ふうう 時にしたがひ、寒暑おり をあやまたず。
御歳おんとし 二十一と申せし保安ほうあん 四年正月二十八日、御位をすべ らせ給ひて、第一の親王しんわう 崇徳しゅうとく 天皇てんわうゆづ り奉らせ給ふ、配流はいる の後、讃岐院さぬきのいん とぞ申しける。大治たいぢ ねん 七月七日白河院しらかはのいん かくれさせ給ひてのち 、天下の事をしろしめす。忠あるもの をば賞じ給ふ、聖代せいたい 聖主せいしゅ先規せんき にもたが はず、罪ある者をもなだめ給ふ、大慈だいじ 大悲だいひ本誓ほんせい にあひかなへり。国富み民安し。されば恩光り暖かに照らし国土みな 豊なり。コ仁あまねくうるほして人民じんみん ことことくおだ やかなり。
その後、保延ほうえん 五年五月十八日、美福門院びふくもんいん の御はら に、近衛院このゑのいん 御誕生、同年八月十七日、東宮とうぐう に立たせたまふ。永治えいじ 元年十二月七日、御とし 三歳にて、御位にそなはらせたまふ。それより後、先帝せんてい をば新院しんゐん と申し、上皇じょうくわう をば一院いちゐん とぞ申しける。
これにより、一院・新院父子の御なか 、互いに御不快ふくわい にならせたまふ。帝もこと なる御とが もわたらせたまはねども、御位をおろまゐ らせたまひけり。これ当腹とうぶく 寵愛ちょうあい によってなり。同年七月十日、上皇、鳥羽とば 殿どの にして御ぐし おろ させたまひけり。御歳三十九、御よはひ も未だおとろ へさせましまさず、玉体ぎょくたいつつが もましまさざれども、宿善しゅくぜん うちもよほ しければ、善縁ぜんえん ほかあら はれて、真実しんじつ 報恩ほうおん の道に入らせたまふ。

ついこのごろ、御名を鳥羽禅定法皇と申し上げる帝王がいらした。天照あまてらす 大神おおみかみ より数えて四十六世、神武天皇このかた七十四代に当たりなさる帝である。堀天皇の第一皇子で、御母は、贈皇太后宮、閑院大納言実李の御娘である。康和五年正月十六日にご誕生、同年八月十七日、皇太子にお立ちになった。嘉承二年七月九日、堀河天皇が崩御なさり、同じ月の十九日、五歳にして即位される。天皇の御在位十六年の間、世間は静かにうまく治まり、自然界もまた感応して、平穏無事であった。御歳おんとし 二十一に当りなさる保安四年正月二十八日、御退位されて、第一皇子崇徳天皇に譲位なさる。この方は、後に保元の乱に敗れて讃岐さぬき の国に配流され、讃岐院とお呼びした御方である。
大治四年七月七日、白河院崩御の後は、この鳥羽法皇がもっぱら政治に当られた。忠ある者をたた えなさるのはもちろん、歴代天皇の慈しみあふれる御政治そのまま、罪ある者にも寛大であるなどは、大慈大悲の御仏みほとけ の誓いにもかなうというものである。国は富み、それがために民もまた穏やかであった。天皇の慈しみに包まれて、天下はすべからく豊とおうもの、帝皇の徳は広く国民に及び、ために人々に不平不満はない。
その後、保延五年五月十八日、美福門院を母とする近衛院がご誕生。同年八月十七日に皇太子になられる。永治元年十二月七日御歳わずか三歳にして御即位。以来、崇徳天皇を新院、与名上皇を一院とお呼びすることになる。これがため、一院と新院御父子の仲はますます不快になるというもの、崇徳天皇もさしたる失政もないのに退位させられた。ご寵愛の深い美福門院との御子なるかゆえの近衛帝御即位である。同年七月十日、上皇は鳥羽殿で出家なさった。御歳三十九。さして高齢という御歳ではない。ご病気おありの様子もなかったが、仏門に帰依せんとことの御願かなっての剃髪ていはつ 、仏道修業を志されたことである。 
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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