〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
あ らす じ

2012/05/03 (木) 新院の御経沈め、また崩御の事

新院は八月十日讃岐にお着きになったが、やがて国司の指図で、四度郡しどのこおり 直島なおしま (香川県賀川郡沖の小島) に御所をお造り申し上げた。
堀を築いた中に家一棟を建て、門一つを立ててあるだけの御所である。外から錠をさして人の出入りも禁じてしまったので、海近いところなのに、松風も千鳥の声も、御目覚めの床でお聞きになるほかはない、わびしさであった。
新院が、あまりにも島の御住まいをお嘆きになるので、四度しど (香川県大川郡志度町) の道場の辺、つづみ の岡に、あらたに御所を建ててお移し申し上げたが、おそばには、だれ一人近づく者もいない。新院は、 「自らは天子の位につき、太上だいじょう 天皇ともいわれたが、今はいつ都へ帰れるのか、その時期を知ることさえできない今生こそ失敗に終わったが、せめて来世のために」 と、御指の先から血をしたたらせ、三年の間に五部の 『大乗経だいじょうきょう 』 を御自筆でもって写されたのを、鳥羽の安楽寿院あんらくじゅいん岩清水いわしみず 八幡はちまん に納めてほしいと、仁和寺の五の宮へ申し送られた。五の宮はこれを見て涙を流され、関白殿におとりなしされたが、少納言信西が、 「不吉なことだ。そのうえその御経には、どのような御祈願がこめられているか、気がかりでもある」 と申し入れたので、主上のお許しも出ないままに、沙汰やみになってしまった。新院はこれを伝え聞いて、 「口惜しや。来世のためにと写し奉った、 『大乗経』 の置き場所さえ惜しんで与えないというのでは、あの世にいたるまでの敵である。こうなったうえは、もはや生きていても無益なことだ」 と、御髪おぐし もおお剃りにならず、御爪も やしたまま、生きながら天狗の姿になられたのも、あさましいことであった。
このことが都に伝えられたので、朝廷では、 「新院の御有様を見て参れ」 と、たいらの 康頼やすのり を遣わされた。康頼がやがて院の御所に参ると、新院は、 「近く寄れ」 と仰せになる。身奉ると御髪おぐし も御爪も長くのびて、すすけかえった柿色の御衣を着て、御顔の色も黄ばみ、御目もくぼんで痩せ衰えられ、荒々しい御声で、 「自らは違勅の責めによって罪に問われている。しかも恩赦の願いもまったく御許しがないという。もはや堪え忍ぶ事が出来ず、思いもよらなかったごう を企てているのだ」 と仰せになる御様子は、身の毛もよだつほど、すさまじいものであった。康頼は一言も申し上げることが出来ないで、早々退出してしまった。
こうして新院は御写経の業を終えられ、御前に御経を積み置かせ給うて御祈誓なさるには、 「自らは重罪にあてられ、深い憂愁に沈んでいる。さればこそ 『大乗経』 書写の行業ぎょうごう によって、この罪から救われようと思ったのだ。しかるに、この行業をさえ拒否された今となっては、この業績を三悪道さんあくどう に投げ込み、その力によって日本国の魔王となり、天皇を取って民となし、民をもって天皇となそうものを」 と、御舌の先を喰い切って、流れる血でもって、 『大乗経』 の奥に御誓状を書き付けられ、海底深く投げ入れさせ給うた。
その後九年、新院は御年四十六の長寛二年 (1164) 八月二十六日、ついにおかくれになった。やがて白峰しらみね というところに御遺骸をお移しして、焼き上げ奉った煙の末も都をさして流れたのは、御恨みの深さもさこそと、まことに恐ろしいことであった。御墓所もそのまま白峰にお構え申し上げた。新院は讃岐国でお亡くなりになったので、讃岐さぬき いん と申し上げたが、治承元年 (1177)怨霊おんりょう たちをなだ め慰められたときに、崇徳院と追号されたのである。
御子の重仁新王は、御出家の後は 蔵院ぞういん法印元性ほういんげんせい と申し上げていた。新院の崩御のことが都まで伝えられると、親王は花の御姿も衰え給うて、黒染めの衣に、さらに喪服をお重ねになるのであったが、この宮の御心こそ、おいたわしいかぎりであった。

『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ
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