新院は八月十日讃岐にお着きになったが、やがて国司の指図で、四度郡
直島 (香川県賀川郡沖の小島)
に御所をお造り申し上げた。 堀を築いた中に家一棟を建て、門一つを立ててあるだけの御所である。外から錠をさして人の出入りも禁じてしまったので、海近いところなのに、松風も千鳥の声も、御目覚めの床でお聞きになるほかはない、わびしさであった。 新院が、あまりにも島の御住まいをお嘆きになるので、四度
(香川県大川郡志度町) の道場の辺、鼓
の岡に、あらたに御所を建ててお移し申し上げたが、おそばには、だれ一人近づく者もいない。新院は、 「自らは天子の位につき、太上
天皇ともいわれたが、今はいつ都へ帰れるのか、その時期を知ることさえできない今生こそ失敗に終わったが、せめて来世のために」 と、御指の先から血をしたたらせ、三年の間に五部の
『大乗経 』
を御自筆でもって写されたのを、鳥羽の安楽寿院
か岩清水 八幡
に納めてほしいと、仁和寺の五の宮へ申し送られた。五の宮はこれを見て涙を流され、関白殿におとりなしされたが、少納言信西が、 「不吉なことだ。そのうえその御経には、どのような御祈願がこめられているか、気がかりでもある」
と申し入れたので、主上のお許しも出ないままに、沙汰やみになってしまった。新院はこれを伝え聞いて、 「口惜しや。来世のためにと写し奉った、 『大乗経』 の置き場所さえ惜しんで与えないというのでは、あの世にいたるまでの敵である。こうなったうえは、もはや生きていても無益なことだ」
と、御髪 もおお剃りにならず、御爪も生
やしたまま、生きながら天狗の姿になられたのも、あさましいことであった。 このことが都に伝えられたので、朝廷では、 「新院の御有様を見て参れ」 と、平
康頼 を遣わされた。康頼がやがて院の御所に参ると、新院は、
「近く寄れ」 と仰せになる。身奉ると御髪
も御爪も長くのびて、すすけかえった柿色の御衣を着て、御顔の色も黄ばみ、御目もくぼんで痩せ衰えられ、荒々しい御声で、 「自らは違勅の責めによって罪に問われている。しかも恩赦の願いもまったく御許しがないという。もはや堪え忍ぶ事が出来ず、思いもよらなかった業
を企てているのだ」 と仰せになる御様子は、身の毛もよだつほど、すさまじいものであった。康頼は一言も申し上げることが出来ないで、早々退出してしまった。 こうして新院は御写経の業を終えられ、御前に御経を積み置かせ給うて御祈誓なさるには、
「自らは重罪にあてられ、深い憂愁に沈んでいる。さればこそ 『大乗経』 書写の行業
によって、この罪から救われようと思ったのだ。しかるに、この行業をさえ拒否された今となっては、この業績を三悪道
に投げ込み、その力によって日本国の魔王となり、天皇を取って民となし、民をもって天皇となそうものを」 と、御舌の先を喰い切って、流れる血でもって、 『大乗経』
の奥に御誓状を書き付けられ、海底深く投げ入れさせ給うた。 その後九年、新院は御年四十六の長寛二年 (1164)
八月二十六日、ついにおかくれになった。やがて白峰
というところに御遺骸をお移しして、焼き上げ奉った煙の末も都をさして流れたのは、御恨みの深さもさこそと、まことに恐ろしいことであった。御墓所もそのまま白峰にお構え申し上げた。新院は讃岐国でお亡くなりになったので、讃岐
院 と申し上げたが、治承元年
(1177) 、怨霊
たちを宥 め慰められたときに、崇徳院と追号されたのである。 御子の重仁新王は、御出家の後は花
蔵院 の法印元性
と申し上げていた。新院の崩御のことが都まで伝えられると、親王は花の御姿も衰え給うて、黒染めの衣に、さらに喪服をお重ねになるのであったが、この宮の御心こそ、おいたわしいかぎりであった。 |