〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-U』 〜 〜
あ らす じ

2012/05/03 (木) 西行法師、白峰の御墓にまいる事

仁安三年 (1168) 秋のころ、西行法師は諸国修行にあたって四国巡見の際、讃岐国に渡って白峰を尋ね、新院の御墓所を拝し奉ったが、荒れ果てた御跡は修造されることもなく、瓦も破れてつたかずら が這いかかっているばかりである。 『法華経』 を読み上げて念仏する僧侶もなく、尋ねる人さえいないので、道さえ草に閉じられて、踏み分けることもできないほどであった。西行は、かたわらの松を削って、

みがかれし 玉のうてな を 露深き  野辺に移して 見るぞ悲しき
(みがきあげられた美しい上皇様の御所を、この露深い野辺に移して見るのは何という悲しいことであろう)
と書きつけ、涙をぬぐうて時のたつのも知らずに思い沈み、泣く泣く、 「畏れ多くも天照大神四十七代の御末、鳥羽法皇の第一皇子としてお生まれになり、国を治め給うこと十九年の間、天下は穏やかに治まって、この御位をだれが傾けるはずもなかったのに、前世の御果報拙く、このような辺地の土となり給うた。いかほどか都も恋しく、御恨みも深くおわしましたであろう 。年は去りまた来たって、いばら を払う人もなく、松の雫、苔の露の落ちかさなる下に、お朽ちになるという前世からの因果こそ、まことに悲しいことである」 とかきくどくのであった。西郷はしこで、
松山の 波に流れて 来し舟の  やがてむなしく なりにけるかな
(都から、この讃岐の松山まで流れ着いた舟も、やがてあとかたもなくなってしまった。新院の御墓所のあとのなんとむなしいことよ)

と詠むとともに、新院の御魂みたま に呼びかけ奉るのであった。

よしや君 昔の王の ゆか とても  かからん後は 何にかはせん
(上皇さま、たとえ御在位中の玉の床にましましたとても、このようにお亡くなりになった後は、どうなることでございましょう。何のかいもありませんものを)
このとき、新院の御墓が三度まで揺れ動いたのも、まことに恐ろしいことであった。尊霊も西行の詠歌によって、御心解けさせ給うたのであろうか。
いったい人皇七十七代の間、公私につけて無数の合戦があったのだが、桓武天皇の御代に平安城と呼ばれて以来、三百七十余年、父子兄弟が双方に分かれて、皇居や仙洞せんとう に軍陣を張り、王城を戦場として宮門に血を流すことは、先例稀なことである。されば知将はそれぞれ力を尽くし、士卒は多く戦死してしまったが、けっきょく王者と臣下は合体し、謀反人はことごとく敗北してしまった。これこそ世にもたぐいのない、不可思議な義兵の力によることである。
『保元物語・平治物語』 発行所:角川書店  ヨ リ