そのころ八郎為朝は、近江国
(滋賀県) に隠れていた。為朝は鎮西
に下り、九州の者どもを率いて都へ攻め上ることを考えていたが、重病にかかってしまい、ある所の湯屋
で治療していたところを、居合わせた者が密告したので、三百余人の兵たちが湯屋を取り囲み、浴室に乱入して逮捕
しようとした。為朝は前後左右から寄る者どもを、つかみ殺し圧
しつぶし、首をねじ切って投げ出すなど、暴れまわったが、長い重病のあとではあり、手足がすくんで走り仆れたところを、ついに生け捕りにされてしまった。 やがて公卿の評議があって、伊豆国
(静岡県) に流されることになる。そのとき、信西が申すには、 「この為朝は内裏に火を放って、天皇の御輿
に矢を参らせようなどと放言した奴、その罪重い上に、再び朝敵になるおそれがある。今後弓を引かせぬように、はからうがよい」 と、義朝に命じて左右の腕を鑿
で打ち放ち、その筋 を抜いてしまった。しかし為朝はこれをものともせず、伊豆に着いた後も、人を人とも思わず勝手のしほうだい、為朝の預かり役、伊豆国大介狩野
工藤 茂光
も、まったくもてあましてしまった。 |