同じく七月二十二日、内裏から仁和寺へ御使いが遣
わされ、明日、新院を讃岐国
(香川県) へ移し奉る旨が伝えられた。明くる二十三日、新院は夜深く仁和寺をお出ましになり、鳥羽のあたりを過ぎて、御舟に召されたが、内裏のお使いは、上皇を押し込め奉った御座所の四方を打ち付け、外から錠
をさしてしまった。こうしたきびしい戒めのもとに、新院は、はるばる西の海へ漂われたのである。 同じく二十五日には、左大臣の死骸が実検され、左大臣の息子たちも、それぞれ各地へ流されてしまった。また内裏から関白殿に、父の富家殿を差し出すようにとの仰せがあったが、関白は、
「父を配所につかわして、その子が関白の地位にとどまることは出来ません。それでは関白を辞退いたしたいと存じます」 と申されたので力及ばなかったが、富家殿は奈良にいることも許されず、けっきょく紫野
の知 足院
にお移りになった。 |